キキミミ氏は更に語る。ウルベアの歴史と、その裏側にあった男の苦悩を。
氏によれば、彼にはある悲願があったらしい。
それが何であったのか、明確には記されていない。あまりに深刻で、あまりに信じ難く、あまりに壮大な目的だった、とだけ記載されている。
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虐殺を目の当たりにした彼は、苦悶の声を上げたという。悪鬼グルヤンラシュの悪名を思えば、意外な話だ。
ジャ・クバ皇帝の暗殺は、ひょっとしたら彼にとっては、悲願をかなえるために必要な、生涯ただ一度の悪事のつもりだったのかもしれない。
だがその先に待っていたのは、更なる罪の連鎖だった。
彼は止まることはできなかった。
立ち止まることは、それまでに犯した罪の全てを、無意味な殺戮へと変えることを意味するからだ。
意味のある殺戮ならば許されるのか? そんな台詞は……それこそもはや、意味を成すまい。
自分自身の犯した罪が、グルヤンラシュを後戻りできない道へと追いやり、彼は一直線に走り続けた。ガテリアと、自分自身を破滅に導く道を。
さらに多くの犠牲者を出しながら……
「ひとつの扉をあけたら百千万の……億・兆・京・那由多・阿僧祇の扉があいた」
リルリラが歌うようにつぶやいた。地下の空気にエルフの詩がこだまする。
「ひとつの扉をとじたら百千万の……億・兆・京・那由多・阿僧祇の扉がとじた」
リルリラは祈るように目を閉じると、息を吐きだした。
「なんだ、それは?」
「わらべ歌」
エルフは首を傾けた。
「ちょっと怖いやつ」
ビーナスの涙が、微かに震えたようだった。
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やがてキキミミ氏の記事は、物語の結末を語り始めた。
不思議な旅人の活躍と、陰謀の暴露。グルヤンラシュの落日。
そして記事は、民衆の豹変をも正確に記録していた。
全てが上手くいっている間は、ガテリアを滅ぼしたことすら称賛し、グルヤンラシュを英雄と崇めていた民衆が、失脚を知るや否や手のひらを返したのだ。
ガテリアには可哀想なことをした。グルヤンラシュには元々反対だった。挙句、自分たちも被害者だ、などと言い始める始末。
「真の勝利は民衆の手にあり、か」
私は吐き捨てるようにつぶやいた。彼らは平和な時代を謳歌したことだろう。高らかに!
グルヤンラシュは、ウルタ皇女自らの手により断罪されたという。
父を暗殺された皇女にとって、グルヤンラシュはただ一人の信頼できる部下だったらしい。
その裏切りを知り、自ら処刑する……
私はため息をついた。
皇族として初めて果たした公務がそれでは、あまりにやり切れない話ではないか。
「ただの家来と皇女様だったのかなあ」
リルリラがひょいと首を突っ込んだ。
「女の子、だよねえ」
肖像画の少女を覗き込む。そして隣にも。
「こっちは男。割と美形」
「おいおい……」
私はその首根っこを掴んだ。
「そういう目で見るのか?」
「自然じゃない?」
「そうだが……」
軽く咳払い。リルリラは黙って舌を出した。
彼女の邪推が当たっていようが外れていようが、ウルタ皇女が信じていた男を自ら処断したことは間違いない。
その胸に宿った感情は、怒りか、それとも……。
ふと、私は皇女の私室を振り向いた。
流線形の美しい宝石が静かにその光を湛えていた。
私はなんとなく、不思議な旅人がこの宝石を受け取らなかった理由が分かった気がした。
ビーナスの涙……この宝石は、ウルタ皇女の寝室で静かに、いつまでも眠っていた方がいい。
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私は思い切って調査員たちに提案してみた。この宝石だけは、ここに置いていかないか、と。
非常識と思われたかもしれない。
だが彼らもまた、歴史への敬意を胸に抱く男たちだった。おそらく、私以上に。
この宝石がここに眠っていること。それ自体が歴史であり、叙事詩であり、抒情詩なのだ。
「どの道全てを持ち帰るわけにはいきませんし、この区域一帯を保護区として管理するよう働きかけましょう」
こうして、我々は多くの成果とともにウルベア地下遺跡を後にした。
今も、ビーナスの涙は地の底で静かに眠っている。
多くの涙と、愛と、罪の眠る場所で。
地上ではピッキー鳥が色鮮やかな羽をまき散らしながら餌を追い、乗合馬車がその脇を通り過ぎていった。
小さきものたちは、今日もまた時を紡ぐのだ。
いつか、地に眠るまでは。
(ビーナスの涙、完)