「兄ちゃん、ちょっとツラぁ貸してもらおうか」
くたびれた装束に磨き抜かれた肉体。典型的な無頼漢が典型的な脅し文句と共に我々を取り囲んだ。
「手短に頼む。勤務中なんでな」
私は帽子のつばをつまみ、耳ヒレを鋭敏に尖らせた。裏通りの淀んだ空気に、硬質な風が紛れ込んでいた。
我々はスラム街の一角、くたびれた絨毯と飾り布に彩られた軒下に案内された。調度品らしき皿がいくつも壁に架けられているのは、我々を見下ろすこの男の趣味だろうか。
イエティ族の巨漢。少し黄ばんだ白い毛皮。眠たげな瞳の奥から力強い視線を注ぐその男の名を私は知っていた。
ハジャラハ。この裏通り一体を支配する元締めである。
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彼は無造作に、しかし威圧的に我々を一瞥した。影が我々の頭上を覆う。
「おう、最近、この辺で活躍中だそうじゃねえか」
「お陰様で」
優雅に一礼。ハジャラハの丸い瞳が鋭く光った。
「その気取った仕草、ゼクレスの生まれか?」
「私は旅商人。旅こそ我が故郷なれば、生まれの国など、とうに忘れました」
「そら、ええ。忘れるっちゅうのは、ええこっちゃ」
ここは詮索無用の国。ハジャラハもそれ以上は追及しなかった。
「ま、別に用は無いんだがのう。雑貨の輸送から危険なハコビまで手広くやっとると聞いて、一度顔を見ときたいと思っただけよ」
ハジャラハは顔を寄せて私の瞳をじっくりと覗き込んだ。覚えたぞ、と暗に言っているようだった。
「光栄です。以後、お見知りおきを」
ハジャラハは口元の牙をのぞかせ、獰猛な笑みを浮かべた。目は笑っていない。一方、私は神妙な表情を繕いながら帽子の奥で笑っていた。
これで私は裏通りの元締めとコネを作り、同時にマークされたというわけだ。
「働き者は大歓迎だ。これからも励むことだな」
「御用の際は何なりと」
着実に虎穴に入りつつある。が、虎児を得るのは、まだまだ先のことだろう。
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会見はつつがなく終了し、我々は仕事に戻った。
だが道草を食ったのが良くなかったらしく、少々予定外のことが起きた。
我々と同時に任務を受けた赤狼組のイジャランが、私が不在の内に何やらやらかしたらしいのだ。
仔細は省くが……我々は騒ぎを収拾するため、剣を抜く羽目になった。
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「……世話をかけちまったな」
激しい戦いを終え、息を整える。バタンがため息交じりに舎弟を介抱し、我々に謝礼を渡した。
約束したハコビの報酬より、かなり多い。迷惑料だとバタンは言ったが、口止め料も含まれていると見るべきだろう。
私としてもやたらと言いふらすつもりは無いが……ヴェリナードへの報告書には書かせてもらう。いや、書かざるを得ない。
イジャランを錯乱させた元凶。そしてレディ・ウルフが集めていた"危険な宝石"の正体は、我々のよく知る存在だったのだから。
「魔障石、とはな」
特殊メイクの裏で冷や汗が流れる。
魔障はアストルティアを脅かす邪気。魔族にとっては力の源。我々はそう考えていた。
だが現実はそうではない。魔族にとって、魔障は劇薬のようなものだった。
制御できるのは一部の上級魔族のみ。下手に摂取すれば心を狂わせ、最悪の場合、死に至る。もちろん大量の死を周囲に振りまいた挙句に、だ。
「レディ・ウルフは魔障石を封印できる数少ない術師の一人だよ。はっきり言って、ボクより上手だね」
とは、ファラザードの呪術師ネシャロットの言葉である。
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彼女自身も一流の術師なのだが、レディ・ウルフとはそれほど規格外の人物らしい。例えるなら、ルシェンダ様の様な高位の賢者だろうか。
魔界は広い。この地にはそんな大物が何人もいて、陰に陽に動いている。西に氷の魔女ヴァレリアあれば東に魔妃エルガドーラあり。
大魔王マデサゴーラなき今、魔界は群雄割拠の戦国時代に突入していた。
そして混沌と戦乱の時代に新星のように現れ、輝きを放ったのがファラザードの魔王というわけだ。
彼は力ではなく交易の力でこの国を築いた、稀有な存在である。同時に、力を貴ぶ魔界においては異質な存在でもある。
果たして彼は新たな時代の王なのか、それとも口先と金の力でのし上がった詐欺師に過ぎないのか。
それを確かめる日は、意外に早く訪れることとなる。
魔障石騒動が収まって一巡りほどしたその日、砂の都は歓喜の風に包まれた。
王の帰還である。