ゼクレス魔導国の入り口には、煌びやかな像がそびえ立っている。
ゼクレスを訪れた旅人は、真っ先にこの像を目にし、そしてこの国を理解する。
私は見上げていた。魔導光に照らされて浮かび上がる、魔妃エルガドーラの絢爛たる姿を。
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権力者が自分の像を飾らせるのは別に不自然なことではない。
だが飾られているのは王太后エルガドーラの像のみ。
現国王であるアスバルが完全に無視されているのである。
子供でもこれを見れば理解できる。これがゼクレスだと。
魔王アスバルの母、エルガドーラはこの国の実質的な指導者である。
血統と伝統を重視するゼクレスの政策は、彼女の意向によるところが大きい。
「魔王でも母親には逆らえない、か」
「家族ってそういうとこ、あるよねえ」
私とリルリラは頷き合った。ま、庶民の感覚で語っていいことかどうかは知らないが。
先のような政策ゆえ、貴族の多くは王太后の信奉者である。一方、庶民には王太后の反感ゆえかアスバル派も多いようだ。
ゼクレスの伝統を受け継ぐエルガ派と、その歪みに耐えきれなくなりつつある庶民たち。
私はこの国の現状をそのように捉えていた。
だが、その認識を覆すものを今、私は手にしていた。
掌の中の、一輪の花を見つめる。
夜露を蓄え瑞々しく輝く花弁には、まだ森の残り香が漂っていた。
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森と泉に囲まれて、静かに眠る青の石碑。
その脇に咲く花を摘んできてほしい、というのがあの老人、ファウロン氏の依頼だった。
だが、その真意は花そのものには無い。
石碑には花を摘む際の注意点が、アストルティア文字で刻まれていた。
魔界でこの文字を読めるのは、余程の学者か好事家か、親アストルティア派の魔族のみ。
「お主が儂らと同じ親アストルティア派かどうか、テストさせてもらった。お主が貧しい魔物達の味方だということも知っておる」
どうやら入れ替わり事件の頃から私のことをマークしていたらしい。思わぬ糸が思わぬ所に繋がったものだ。
「つまりわしらは同志というわけじゃ」
老人はにこやかな笑みを私に投げかけた。が…
彼の微笑には、さらなる意図が含まれていた。
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ゼクレスの魔導光が花びらに重なる。慎ましく佇んでいた花が鮮やかに色濃く、主張を始めたようだった。
石碑に刻まれていたのは花の摘み方だけではない。
碑文の主はゼクレスの前王イーヴ。彼の言葉は私の認識を根元から覆すものだった。
貴族と平民とに 違いなきように
魔族も獣も花々もみな 等しき命
いたわりの気持ちを忘れてはならぬ
…ゼクレスの現状とは、かけ離れた言葉である。
「イーヴ王の時代はよかった。ゼクレスは変わってしまった…」
老人はそう述懐した。親アストルティアの思想も、彼から受け継いだものらしかった。
「意外な話だ、な…」
ゼクレスは魔界で最も古い国だ。ゼクレス貴族の性格も長い歴史により培われたものだと、私は思い込んでいた。
だがそうでないとしたら。イーヴ王の死後、エルガドーラがたった一代でゼクレスを変えてしまったのだとしたら…
「聞きしに勝る魔女、と言う他は無いな」
「だがこの国を、魔女の好きにはさせん」
ファウロン翁の瞳が鋭く光った。
彼によればイーヴ王の遺志を継ぐ同志は国中に潜んで機を窺っているらしい。
「アスバル様がこのまま王太后の傀儡となるなら…我々も決断せねばなるまい」
老人は霧の中にそびえる王城を見上げる。私は好々爺の瞳の奥に、獰猛な牙を見た。
「その時にはお主にも一肌脱いでもらうぞ」
「私は一介の旅商人なれば…誰の味方でもありません」
「それでよい。奴らの味方でなければな」
レジスタンス、とでもいうべきか。
だが、彼らを全面的に信頼するのもまだ早い。
私の様な行きずりを仲間に引き込もうとしている時点で、彼らの戦力不足は明らかだ。国中に同志がいるという言葉もどこまで信用したものか。
「早まって過激なことをやらなければいいが…」
「怖いもんね、そういうの」
リルリラも同意した。一歩間違えば無意味に血を流した上で、更なる弾圧の口実にすらなるだろう。
「バルナバスの奴、あいつらと仲間なのかニャ?」
ニャルベルトは貴族街を見上げた。
「接触している可能性は高いと思うが…どうかな」
別々に活動しているとしたら、面倒な話になる。
バルナバスは穏健派とはいえ、有力貴族の一人である。
ファウロン老のレジスタンスが実のところ、単に政権交代によって没落した旧勢力の生き残りで、革命による再起を狙っているにすぎないとしたら…?
「キナ臭くなってきたな…」
老人達は亡き王に、どんな花を手向けようというのか。
ゼクレスの夜霧は全てを包み、妖しく揺らめいていた。