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そのシャドーサタンは、指一本震わすことなく薬瓶を傾けると、とろりとした液体を試験管に注いだ。
離れていてもわかる刺激臭に、私は思わず一歩下がった。
灰色の魔人は第三の目を大きく見開き、試験管を凝視する。
そしてその液体を左手の矢に一滴だけ垂らし、側に傅く兵士に渡した。
兵士は実験室を出るとそれを弓につがえ、岩山に生えた木に向かって鋭く射た。
「……!!」
私は思わず身を乗り出した。矢の刺さった木は、まるで血を流すように赤く変色し、瞬く間に朽ち枯れていった。
「……成功だ」
シャドーサタンは無表情に頷き、三つの瞳で私を一瞥した。
「お前の運んでくれた毒薬のお陰だな」
「……どうも」
私は複雑な表情で帽子のつばを抑えた。
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我々が情報収集のため、旅商人としてバルディスタを訪れてから一巡りほどの時が流れた。
土地が貧しく慢性的な物資不足に悩まされるこの地において、旅商人の担う役割は小さくない。食料や衣類、武器防具。戦争続きでストレスが溜まっているせいだろう。嗜好品の需要もかなりのものだった。
だが、ここは武断主義のバルディスタ。力ある者が全てにおいて主導権を握る。値切り交渉も、バルディスタ流だ。
私がこの地で商売を成り立たせるには、強面どもの力こぶを上手くやり過ごす必要があった。
猫魔道のニャルベルトが後ろで火球を浮かべていなければ、売り上げは半分になっていたかもしれない。
「さすがネコさんッス!」
「それほどでも無いのニャー!」
スライムのスライドがすかさずゴマをする。彼らの関係は、相変らずであった。
「浮かない顔だね」
と、妖精のリルリラが私の頬をつついた。
「そりゃ、そうだろう」
私はふくれっ面を返した。
バルディスタの魔王ヴァレリアは、アストルティア侵攻を加えた張本人。この地でものを売るということは、間接的に敵に塩を送ることになるのだ。
かつて武器屋トルネコは、エンドール侵攻を企てるボンモール王国に武具を売りさばいて財を成しつつ、裏では和平の使者として二国の間を奔走したそうだが……
「そういう器用さは、私には無いな」
武器が一つ売れるたびに、私はその穂先が向かう先を思い、ため息をつくのだった。
「じゃあさ、こんな依頼はどう?」
と、リルリラが受けてきたのが薬剤師ボイア氏からの依頼だった。薬の原材料を入手してきてほしい、とのことだ。
「人助けなら、少しは気が楽でしょ?」
「だが理屈を言えば、それも結局は……」
「理屈を言わない!」
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妖精は私の唇に人差し指を押し当てた。
ボイア氏によれば「命に係わるかも」とのことで、確かに緊急の依頼のようだった。
私は依頼を引き受けた。
そして原材料を入手し、氏が完成させた薬品を所定の場所に届けるまでは予定通りだった。
だがその場所がバルディスタ軍の研究所で、相手がシャドーサタンのドクター・ロアだというのは、私の予定には無かった。
「……いい毒薬だ。即効性がある。効能も良好」
ロア博士は感情の無い声で試験薬を評価していた。
崩れ落ちた枯れ木から目をそらすように、私は天を仰いだ。
……一体、何が命にかかわる事態だというのだ!
「ああ、その毒薬、運ぶときにうっかりこぼして死んじゃう人が多かったから」
とはボイア氏の言である。
つまり、かかわっていたのは私の命か。まったく!
愚痴の一つも言いたくなるが、軍部の者と関わりを持つことができたのは、私の任務にとっては僥倖だった。
この際だ。出来る限り事情を聴いてみることにしよう。