空の陰りが星々を隠そうとも、極北に浮かぶ碧玉は大地を妖しく照らし続ける。
紅葉の森が月光を受けて揺れ、風の音を静かに運ぶ。彼方へ、彼方へ。
……月明かりの谷とはよく言ったものだ。
私は空を見上げ、ため息をついた。
幻はそこまでだ。
目をそらそうとする意識に鞭打ち、私は視線を谷底に向ける。
そこに待ち受けていたのは無残にも朽ち果てた一軒の孤児院。それをイバラのように取り囲む毒々しい瘴気。そして腐りただれ、異臭を放つ不毛の荒野だった。
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ヴェリナードの密偵としてバルディスタの内情を探る私は、道中で知り合った事情通のスライム、スライドからいくつかの情報を引き出していた。
バルディスタ北東部、月明かりの谷に、戦火を逃れた子供たちが隠れ住む孤児院があること。
軍のナンバー2、ベルトロがその孤児院に出入りしていたこと。
そしてその孤児院がある日突然、廃墟と化したこと……
「むごいな」
「ああ」
スライドは珍しく私に同調した。猫魔道のニャルベルトもいつになく神妙な面持ちで廃墟を見つめていた。
廃墟となった孤児院の庭には、洗濯物が干されたまま揺れていた。きっとその日も、平凡な一日だったに違いない。突然の滅びが訪れる、その瞬間までは。
……バルディスタの公式記録では、魔瘴の異常噴出による事故とされているらしい。
私は谷を見下ろし、手を合わせた。
縁もゆかりもない敵国の子供たちだが……私も同じ孤児院育ち。彼らの冥福を祈ることを、女王陛下は裏切りとは呼ぶまい。
妖精のリルリラが燐光を帯びて私の隣に浮かび、祈りの形に指を組んだ。
今はこのような姿だが、本来の彼女はエルドナ神に仕える僧侶である。
慈悲深きエルフの神は、魔界の子らにも手を差し伸べるだろうか。
デモンマウンテンに掲げられた光球は、ただ静かに谷を照らしていた。
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「けど、ニャんで軍のお偉いさんがここに出入りしてたのニャ?」
「イヤ……あっしもアイツから聞いたっきりで、そこまでは……」
スライドは孤児院の側を顎で示した。彼と同じ、青い水滴型のシルエットが静かに佇んでいた。
彼は名をスラランといい、スライドの友人兼情報源の一つだ。孤児たちと仲の良かった彼の口からスライドはこの情報を得たというわけだ。
だがそのスラランも、事故の現場を見たわけではない。
そして、こうやって丘の上から谷を見下ろすと、孤児院とその周辺だけが魔瘴に覆われ、他の区域は無傷であることに気づく。
「妙だ、な……」
私は腕を組んだ。
偶然、孤児院だけに狙いを定めたように魔瘴が噴出したとでもいうのか……?
「ねえ、見て」
少し離れた場所でリルリラが私を呼んだ。
「お墓があるよ」
孤児院を見下ろす丘の上、質素だが丁寧に作られた小さな墓石がそこに並んでいた。
手前のいくつかは、つい最近作られたものだ。
そして真新しい墓石の前に、慎ましく添えられた一輪の花があった。
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氷のように透き通った色をした花が、月明かりに照らされて淡い光を放った。摘まれてなお瑞々しく、眠れる子らに静かに寄り添うようなその花びらは、限りなく優しい色に染まっていた。
「こいつはバルディジニアの花ッスね。近頃滅多に咲かない、珍しい花ッスよ」
「そんなもの、誰が供えたのかな……」
リルリラが呟く。
……と、青い花が小さく震え始めた。まるで自分の姿を見られたことを恥じるように……
……恐らく谷を吹く風が、花びらをかすめて通り過ぎていったのだろう。
と、その時である。
私は背後に違和感を抱き、背ビレをピクリと震わせた。
風に混ざった、鉄の匂い。咄嗟に剣の柄に手をあて、神経を研ぎ澄ます。
スライドがその場を飛び退いた。猫が長い声で鳴いた。
そして軍靴の音がはっきりと、我々の背後を取り囲み始めた。
「貴様ら動くな!」
鋭い声が上がる。振り向けば、漆黒の鎧姿。数は4……いや、5。
そしてその後ろに、薄緑のサーコートを羽織った軽装の魔族がいた。身なりからして彼が指揮官だろう。
殺気だった声を上げる兵士達とは対照的に、気の抜けた表情で腰に手を当てたその姿はどこか胡散臭い。
私はその容姿とこれまで集めた情報から、即座に一つの名前を連想した。スライドに目をやる。彼は答えなかったが、表情が私の推測を肯定していた。
「よう、兄ちゃんたち」
その男は気だるげに頭を掻きながら兵を下がらせた。
「そこで何してんだい?」
バルディスタの高官、ベルトロは一見気の抜けた、しかし油断ならぬ視線で我々を睨みつけた。