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月明かりの中、バルディスタ兵が我々を取り囲む。
私は手を剣から放し、無抵抗の合図を上げた。
「旅の者です。通りすがりにこの有様を見て……祈りを捧げておりました」
「へえ……、そりゃ、酔狂な奴もいたもんだな」
ベルトロは笑い声をあげた。瞳は笑っていない。
「けどよ、あんまりこの辺をうろついてほしくないんだわ」
声を荒げず、あくまで笑顔のままで、しかしその口調には独特の凄みがあった。
どうやらここにはかなり重要なものがある……あるいは、あった、らしい。
「失せろと言っておるのだ!」
バルディスタ兵は槍を突き出し、威嚇の声を上げる。
視界の端に、バルディジニアの花が映った。
彼らは何を守っている? あの花を捧げたのは誰だ。ベルトロか?
それとも、ナンバー2を墓守として遣わすほどの……?
私の脳裏に直感的な閃きが訪れた。もし、そうだとしたら……
そして私は殺気だった兵士たちの前で、あえて挑発的に肩をすくめてみせた。
「祈りが終わったら、そうさせてもらおう」
「貴様、何をグズグズと!」
兵たちが詰め寄る。
「おっと」
私は掌を前に突き出して彼らを制した。
「暴力は為にならんぞ」
漆黒の戦士がいきり立つ。ニャルベルトは身構え、スライドは木陰に隠れた。
「早まるな」
私は笑みを浮かべ、親指で背後を指し示した。
「ここで騒ぎを起こしたら、この花を供えた人が怒るだろうと言ったんだ」
バルディジニアの花は、氷の色で彼らを睨み据えた。
途端に、兵たちは得物を取り落さんばかりに狼狽し、ベルトロはため息とともに頭を掻いた。
その姿は、直感を確信に変えるに十分なものだった。
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この国では、魔王の名は常に畏怖と共に語られる。絶対的君主。力の主。そして非情なる侵略者。
氷の意志と、絶対的な力。魔王の恐怖こそがバルディスタの規律であり、秩序であった。彼女が氷の魔女でなければ、バルディスタはバルディスタたりえなかったに違いない。
だが、バルディジニアの花は美しい。
子供たちを見守り、その死に涙の露をこぼし、墓前にてその魂を弔う。氷の青と、ぬくもりの白。
彼らが見られたくなかったのは、これだ。これは、あってはならない花なのだ。
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雲が蠢き、青い花が影に隠れる。震えていた花弁が静まった。
光を浴びて怯えるように揺れ、影に隠れると安堵の息を漏らすように花弁を垂れる。
そして私は誰にともなく呟いていた。
「この国の王は、呪われているらしい」
兵たちが顔を見合わせた。ベルトロは、これまでで一番深刻な表情で私の顔を覗き込んだ。
「誰が陛下を呪うって言うんだ?」
私は軽く目をそらし、墓石を見つめる。
「呪いは魔女の専売特許。魔王に呪いをかけられるような魔女なら、国一番の魔女だろうな」
ベルトロの顔が歪んだ。私は言葉をつづけた。
「……氷の魔女、ヴァレリアだ」
兵たちが再び顔を見合わせる。ベルトロは天を仰ぎ、大きなため息をついた。
月明かりが風を呼んだ。再び雲は流れ、墓石に月光が当たる。それを遮るようにベルトロは一歩前に出た。影が覆う。
「ヤイルって、知ってるか」
ナンバー2は、ナンバー3の名を口にした。肯定の視線を送ると彼は首を振った。
「呪いをかけたのは、アイツさ」
「貴公はどうなのだ?」
鋭く視線を返す。花は影に佇む。彼はひらりと身をかわし、ニヤリと笑った。
「さあな。お前さんにはどう見える?」
ベルトロは私の肩を軽く叩くと、大きく伸びをした。表情は、読み取れなかった。
「ま、あんまし首をつっこまねえこったな」
ベルトロは私の前を通り過ぎてニャルベルトの帽子を軽くつついた。
「好奇心は猫を殺すっていうぜ」
「ニャ……!」
ニャルベルトが唸った。スライドは傍観。
「自殺志願者ではないつもりだ。これで失礼する」
「そいつは結構」
ベルトロは立ち去る我々を阻むでもなく、すんなりと包囲を解いた。ただ一言、
「夜道に気をつけてな」
と、警句を発したのみだった。
妙な噂でも広まろうものなら、我々の首などいつでも狙える、というわけだ。
つかみどころのない、そして油断ならない男だ。
噂によれば、魔王ヴァレリアのアストルティア侵攻に対し、継戦能力の不足を理由に正面から異論を唱えたのも彼だったそうだ。
逆に言うならヴァレリアは、自分に異を唱える男を側近として置くような王ということだ。
敵対国として組織を分析するなら、そこが何よりも怖い。
それは計算なのか、それとも……
『氷の魔女、ヴァレリアか……』
私はもう一度だけ、月明かりの墓を振り向いた。
バルディジニアの花は、闇の中で静かに佇んでいた。