月明かりの谷での一件から更にしばらくの時が流れた。
私は商売の傍ら城門の兵士と雑談し、付近の地形と街の構造を覚え、時に軍医ロア氏に物資を届けて負傷兵の数から戦況を推察し……
ファラザードで仕入れた商品をあらかた吐き出した頃には、それと引き換えにかなりの情報を仕入れ終わっていた。
一方、街はにわかに慌ただしくなりつつある。
大魔王選定の儀に出向いていた魔王ヴァレリアが、憤怒の形相と共に帰還したのだ。
聞くところによれば、魔界三国の王はいずれも大魔王に選ばれず、名も知れぬ旅人が第一候補者となったとか。
ヴァレリアの漏らした激怒の吐息が城門を半ば凍らせたと、専らの噂だ。
「魔仙卿ってのは何を考えてるんスかねえ」
「わからんニャー」
スライムのスライドと猫魔道のニャルベルトが共に首をかしげた。
噂によれば、その旅人というのはファラザード王の従者で、いまいち冴えない顔つきの若者だとか……
これを不服としたヴァレリアは、武力による魔界統一を宣言。軍の動きはこれまで以上に活発になっている。
「その旅人さんがヴァレリア様以上ってこと? ちょっと信じらんないわよねー」
すっかりお得意先となった薬剤師のボイアも、そう漏らしていた。
確かに、その旅人が並外れた人物である可能性もあるが……
「当て馬、という可能性もあるな」
魔仙卿の裁定をきっかけに、魔界中が目まぐるしく動き始めたのを私は感じていた。
ゼクレスは鎖国政策をいよいよ本格化し、バルディスタは軍備を増強。そしてあのファラザードまでもが、戦に向けて舵を切り始めたという。
他2国はともかくとして、ファラザードの反応は私にとって予想外だった。
砂漠の国の王、宴の席に現れたあの魔王の顔を思い出す。情熱的な自信家、活動的で知恵者。人望が厚く自負心も人一倍。
そんな彼が、たかが従者より劣るとの烙印を押された時、どんな反応を示したのか。
「その答えが、これか……?」
魔山に輝く碧玉は無表情に空を照らす。
仮に魔仙卿が魔王たちの反応を見極めるため、あえて的外れな人選をしたのだとしたら。
……選定の儀は、まだ終わっていないのかもしれない。
「ただいま~」
と、宿の窓をくぐって部屋に入ってきたのは妖精のリルリラ。他の国でもそうだが、彼女はちょくちょく一人で散歩に行く。
何か探し物でもしていたのか、と聞くと、こんな答えが返ってきた。
「んー、やっぱりこの国にも無かった」
「何がだ?」
「教会」
妖精は祈りの形に指を組んだ。今はこんな姿だが、彼女は元々エルフの僧侶である。
とはいえ、種族神の神殿や教会が魔界にあるはずもないのだが……
「でも私、魔界には魔界の神様がいるって思ってたよ」
妖精はちょこんと腰掛ける。
「だって、いないと不便じゃない?」
僧侶の身で、ずけずけとそんな台詞を吐く。便利さの問題ではないだろうに……
「でもさ。お祈りもできないんじゃ、気も晴れないでしょ」
「……フム」
妖精の言葉に、私は腕を組んだ。
言われてみれば、宗教という文化そのものが存在しないのは、不便なものである。
特に敬虔な信者でなくとも神に祈ることぐらいはある。そして我々は日常の様々な場面で、神という概念を実に都合よく利用しているのだ。
アストルティアでは国家の最高指導者ですら、神という存在を己の上に置く。王が敬虔な神の使徒であるかどうかはこの際、関係ない。己より大きな存在を概念として想定していることが重要なのだ。
彼らは「神よ祝福しまえ」と聴衆の前で祈りを捧げ、「神に誓って」と己の意志を表明する。
そしてもし王が不正を働いたならば、民衆は口をそろえてこう言うのだ。「神が許すまい」と。
魔界にはそれが無い。
ゆえに王の、個人としての資質が全てとなる。武力、才覚、あるいは血統。それを持つものが全てを己の色に染めていくことを、咎める理屈がどこにも無いのだ。
だから魔界は治めるものによって何色にも染まり、またその傾きに際限がない。
これはあるいは、魔族と我々の、最も大きな違いなのかもしれなかった。
「報告書の片隅にでも、記しておく価値はあるか……」
「でしょ?」
妖精は胸を張るのだった。
さて、街がいよいよ騒がしくなってきた。
密偵としての私の活動も、このあたりが潮時だ。
戦が本格的に始まる前に、一度報告書をまとめてアストルティアに帰還する予定である。
活気溢れる砂漠の都が、危うい均衡を保つ霧の都が、そして無骨にして剣呑なる武の都が、次の時代にはどのような顔を見せるのか。
そしてアストルティアはそれにどう対応するのか。
私はただ、この時代の中を駆けていくのみだ。
魔界の雲は混沌の空を、足早に流れていった。