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沈黙が続く。私は立ちくらみすら覚えた。
少なくともこれは……私が手にした中で最大の情報だ。その重大さに、手の震えが止められなかった。
これで我々に、魔界三国のつぶし合いをただ傍観するという選択肢はなくなった。彼らが共倒れになったところで、脅威は消えないのだから。
まず、魔界の戦乱。次に魔瘴の氾濫。その双方に対し、正しく立ち回らねばならない。
私の沈黙をどうとらえたのか、彼女は私を覗き込んだ。
「あなたはアストルティアを知ってるの?」
「商人として……あちらの品も扱いますから。少しはわかります」
「ユシュカはとても素敵な場所だって言ってた……そうなの?」
「そういう話も聞きます」
いくつかのシーンが、脳裏に浮かぶ。
「……そうでない話と、同じくらいに」
私の言い回しがおかしかったのか、彼女はクスリと笑った。
「ユシュカが言うように、手を取り合えると思う……?」
「……どうでしょう」
「だめなの?」
少女は首をかしげた。私は腕組みをして首を振った。
「先の大魔王はアストルティアに侵攻し、今またバルディスタが戦火を放った。彼らが魔界をどう思っているか、想像はつくでしょう」
「でも大魔瘴期は、人間にとっても恐ろしいこと……それを防ぐためなら……」
「巫女殿……」
私は瞳を閉じた。
「魔界はどうなのです」
「え……?」
巫女の身体がぐらりと揺れた。私は窓の外に視線をやった。戦乱の大地に。
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「今まさに魔瘴が地を覆い、滅びの時は刻一刻と迫っている。にも関わらず、彼らは貴女の存在すら火種にしてしまったのです」
魔界の雲が硝煙と共に空を走る。重苦しい陰りが少女の瞳に立ち込めた。私は続けた。
「戦火を交えるとはそういうことです。一度起きた争いが、理屈で止まるならば……」
誰のため息だっただろう。暗い空気が場を覆った。
魔瘴の脅威に端を発した戦いは、全てを巻き込み拡大し続ける。もはや誰も止められまい。
そして人同士が争い合う裏で、本来の敵、魔瘴の侵食は加速度的に進行していくだろう。それをわかっていながら、止めることができないのだ。
巫女は私を見つめ、そして言った。
「あなたは、それを悲しいと思う?」
その瞳にはどこまでも透き通った、しかし幾重にも屈折した光が宿っていた。水晶のように。
私は何故か、目をそらしていた。
「……人の常かと」
追いかけるように巫女殿が瞳を上げた。
私は顔を覗き込まれたような感覚に襲われ、思わずそらした視線を引き戻した。
私が抱いた感情は、おびえ、だっただろうか。隠し事を咎められた子供の様なような後ろめたさが喉元にこみ上げた。
少女はただ、静かに微笑みかけただけだった。
誰もが安堵の吐息を漏らすような、慈母の微笑み。
その背後、噴水の水面に、たゆたう少女のシルエットが見えた。波紋が輪郭を滲ませ、反射したランプ光が後光のように輝く。
嗚呼、私は息を漏らしていた。
まるで無邪気な乙女と全てを包み込む聖母が、少女のか細い身体に同居しているかのようではないか。
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私は再び帽子を外し、頭を下げた。
「数々のぶしつけな問いかけ、御無礼をお許しください、巫女殿」
「……取引をしない?」
「は……?」
呆けたように口を開けた私に、彼女は茶目っ気のある笑顔で答えた。
「許す代わりに、できれば名前で呼んでほしいの」
私はこれまで、彼女の名を一度も口にしていないことにようやく気付いた。
「わかりました、イルーシャ殿」
魔瘴の巫女……いや、イルーシャは微笑を浮かべ、言った。
「あなたは正直な人ね、ミラージュ」
「……皮肉ですか?」
「ううん。本当に、そう思ったの」
無邪気な少女の微笑みだった。
「ところで、そろそろ花の名前を教えてくれない?」
「そうでした」
私は手にした花を再び取り出す。青く白い、一輪の花。
イルーシャは顔を近づけ、その花弁を覗き込んだ。
「美しいと思いますか?」
「ええ」
少女は頷く。私は……少し意地の悪い答えを返さねばならなかった。
「この花の名はバルディジニア」
脳裏に、月明かりの墓石が浮かぶ。
「……バルディスタに咲く花です」
少女がハッと息をのむ。
今まさにファラザードに襲い掛からんとする、敵国の花。
今一度、私は訊ねた。
「……美しいと思いますか?」
青い花は揺れていた。
イルーシャは愁いを帯びた瞳でそれを眺め、白い指で花弁に触れて頷いた。
「……美しいと思うわ」
ちょうど、その時だった。
突撃隊長を名乗るファラザードの獣人兵が、何ごとか喚きながら宮殿へ駈け込んで来た。
それはユシュカ王の待ち続けていた、鐘の音だった。