
ファラザード宮殿の一角。ベンガルクーンのニェルニャン氏は猫背を丸めながらため息をついた。
経理事務室の机の上には、赤い棒線が引かれた会計書類が散乱する。猫の抜け毛が失意と共にその上を走っていった。
「イヤハヤ戦争とはイヤなものですニャ。コツコツと積み上げた蓄えを一瞬で食いつぶしてしまいますのニャ」
「ホント、戦争ニャんて腹が減るばっかりだニャー」
猫魔道のニャルベルトもそれに同意した。
外からは慌ただしく駆け巡る兵士たちの足音が響く。だがその足取りはおぼつかない。どこに向かうというのか……
バルディア山岳の敗戦から一巡りほどが経過し、失意の王を迎えたファラザードの街は異様な空気に包まれていた。
* * *
私の名はミラージュ。ヴェリナードに仕える魔法戦士だが、今は魔界情勢調査のため、商人としてファラザードに身を置いている。
あの戦いで、ファラザードは大きな傷を負った。
同盟を結んだゼクレスの裏切りによりファラザード軍は壊滅。多くの兵が傷を負い、数えきれない命が奪われた。その中には、替えのきかない人材も含まれていたのだ。
施療院はたちまちのうちに満員となった。妖精のリルリラは僧侶としての経験を活かし、そちらの手伝いをしている。時に治癒術師として奔走し、時に……彼岸へと旅立つ命を送る。
「僧侶が忙しいって、よくないよね」
仕事の合間に彼女はこぼした。私にできるのは、食事をおごってやることぐらいだ。ジルガモットが特製のデザートをサービスしてくれた。
ユシュカ王は、よほどショックだったのだろう。自室に閉じこもり、誰とも会おうとしなかった。

彼にとって残酷なのは、直接の敗因が彼自身の戦いにあったことだ。
あの時、ユシュカはいち戦士としてヴァレリアと剣を交えていた。その剣が届いていれば、戦況は違っていただろう。バルディスタ軍を圧倒し、ゼクレスの裏切りにも余裕を持って対処できたかもしれなかった。
だが剣は届かなかった。戦いは膠着状態に陥り、魔光の直撃が両軍を襲った。言い訳の余地もなく、彼自身の技が、肉体が、ヴァレリアに及ばなかった。否応なしにそれを理解できてしまうことが、ユシュカにとっては悲劇であった。
ゼクレスとの同盟にしても、ユシュカ王は完全に手玉に取られた形になる。契約を信じ、裏切られた。
ファラザードは交易で栄えた国だ。損得、契約、利害の一致。それで成り立っている。だから、ゼクレスも同じだと無意識のうちに信じていたのだろう。利害が一致する間は、表立って裏切るはずがないと……。
悪意の都ゼクレスの、その悪意をはかり損ねた。目利きを誤ったのだ。鑑定眼を最大の武器として国を興したユシュカ王にとって、これは己のプライドを粉砕される敗北だったに違いない。
戦士としても、戦略家としても、彼は一敗地にまみれた。
民衆が王に対して失望ではなく、同情の声を上げていることが救いと言えば救いだろうか。まだカリスマは失われていない。……今のところは。
王が姿を現さないために戦略は停滞していた。各部隊長が独自に案を出し、合議制で次の進軍を検討しているような有様である。
本来客分であるイルーシャまでもが彼の身を案じて、扉越しに何度も声をかけている。その姿はまるで、ふさぎ込む子供に声をかける母親のようだった。
こんな時こそ、王に正面から正論をぶつけ、奮い立たせる忠臣が必要なのだが……。
……戦いはあまりに大きなものをこの国から、そしてユシュカから奪ってしまった。
「けどさ……」
と、巡回の兵士は愚痴をこぼす。

「お偉方はまだいいよ。死んだって、歴史の教科書には載るんだろ」
広場から、弔いの歌を吟ずる詩人の声が聞こえてくる。彼は空を見上げた。
「俺のダチの名前なんて、誰も呼んじゃあくれないんだぜ」
私は彼に酒を奢り、一杯つきあった。宮殿に目をやる。王の嘆きの片隅にでも、彼の友人の死が含まれていることを祈るばかりだ。
裏通りの荒くれたちも、多くが遊撃隊として出陣し、死傷者は少なくなかった。
以前関わった赤狼組の面々も神妙な面持ちで戦死者を悼んでいた。
顔役のハジャラハはため息交じりに呟いた。
「ユシュカの奴は自分の命と引き換えに、デケェもんを失っちまったなあ」
渇いた風が白い毛皮に砂を撒く。

「死んだ連中は最後の瞬間まで、ユシュカの夢を全力で支えたんだ……だったら夢の続き、見なくちゃなあ……」
「夢、ですか……」
その爽やかな響きとは裏腹に、重苦しい空気が砂の都を覆う。
砂漠の砂が、ざりざりと音を立てて転がった。重く、硬く。
王の胸にも同じものが蠢いているに違いない。
受け継ぐべき夢。それはまるで、死者が残した呪いのようだった。