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妖精が手を振ると、イルーシャは少し疲れた笑顔を返した。リルリラは彼女の傍らに飛び寄った。
「王様、まだ元気でない?」
「ユシュカは今、痛みと戦ってるわ」
彼女は沈痛な面持ちで、閉じられた扉に目をやった。
「力になりたいけど……でも言葉だけじゃ、心は動かない……」
砂漠の夜風は冷たい。寒々とした空気が宮殿を包む。
妖精は私の肩の上に座り、巫女殿と向き合った。
「怪我をした時ってさ」
と、リルリラは頬杖を突く。
「回復呪文とか痛み止めでとりあえず動けるようにはできるけど、ちゃんと治療しないとすぐ悪化しちゃうんだよね」
ハッと何かに気づいたようにイルーシャは面を上げた。リルリラは笑顔を返す。
「時間かけて治さないとね。疲れたら、宿屋で一休み!」
「そうね……急かしたら、よくないわよね」
小なりとはいえ治療に携わる者として、一家言ありといったところか。だが私は腕組せざるを得なかった。
「問題はその時間が足りないこと、ですな」
妖精はジロリとこちらを睨む。が、事実だ。
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戦局は既に動き始めている。特攻隊長を中心とした陽動部隊は既に出撃済みだ。この作戦が成功しようしまいと、王が何の号令もかけないままでは、ユシュカの名声は地に落ちるだろう。
そうなればファラザードも遠からず瓦解する。今が正念場だった。
「みんなが、夢をかなえるために命をかけた……それを無駄にしちゃいけないと思う」
夢……ハジャラハも口にしたその言葉に、私はまた重苦しいものを感じ、つい、余計な一言漏らしていた。
「彼は……夢のために戦っていたでしょうか?」
「えっ?」
イルーシャの瞳が私を見上げる。リルリラも首をかしげた。
「王の掲げた理想を疑うつもりはありませんが……」
私はかつて招かれた砂漠の宴を、無敵の英雄としてふるまうユシュカの姿を思いだしていた。
自信に満ち溢れた強者の笑み。隣で小言を言う忠臣。彼自身が築き上げた王国。取り囲む民衆。市場の賑わい……。絵にかいたような幸せな若者の姿を。
己の才覚を信じ、己を認めてくれる仲間とともに汗をかき、笑顔を分かち合い、全力で走り続ける。
「ただそれだけの充実感こそ、彼が求めていたものだったのでは……?」
私の正直な感想である。
走るためにはゴールが必要だ。彼はそのゴールを、理想郷の建設に定めた。永遠にたどり着けなかったとしてもいいのだ。いや、むしろその方が……永遠に走っていられる。
砂漠の王の正体は、全力で青春を謳歌する、無邪気な若者だったのではないか……。
「あなたの言うこと、正しいかどうかわからないけど……夢を語ってる時のユシュカは、本当に楽しそうだったわ。ひょっとしたら、夢をかなえた時よりも……」
「ですが……もうその日々は戻りません」
失われた命が、少年期の終わりを告げたのだ。
そして、走るために掲げた仮初の理想が今、現実の重みをもって彼の肩にのしかかっている。
走る為に走り、それに満足する時代は終わった。彼は理想の為に走る王とならねばならない。
それが……呪いだとしても。
「それが、王になるっていうこと?」
イルーシャの柔らかな瞳が揺れる。
「もし彼が大魔王になるなら……これからも、ずっと?」
見上げられた私は、いつかのようにまた目をそらしていた。
「……私の様な下々の者には、答えられない問いかけです、イルーシャ殿」
イルーシャは少し頬を膨らませたようだった。
「ずるいのね」
「そのようです」
私は帽子をかぶり直す。
イルーシャは再び、ユシュカの籠る部屋の扉へと視線を注いだ。
悩むような、悲しむような、それでいて限りなく優しい……それはまるで、子を思う母のような眼差しだった。