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その日、ユシュカは誰にも会わなかった。
見回りの兵たちも、誰に頼まれたのか、その日だけは王の部屋に近づかなかった。
月の光は、ゲルヘナに輝く大光球の輝きと混ざり合い、複雑な色合いで砂漠の夜を照らした。
冷たく乾いた風が、扉の隙間を抜けて宮殿に入り込む。
夜のしじまが熱砂を冷まし、透徹とした空気が逃れようもなく全てを包んでいく。
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やがて……雲が空を覆った。ファラザードの街を、月明かりから遠ざけるように、抱き包むように。
寝ぼけ眼で空を見つめた私は、その雲に何故かイルーシャの面影を見ていた。
ユシュカ王には、よりはっきりと見えたのではないか。
慈母の抱擁……宵闇が眠りをもたらし、沈黙が街を覆う。
安らぎ……。
そして、夜が明けた。
砂漠の宮殿を曙光が照らす。
幾重にも絡まった混沌の陽光がファラザードの砂に再び熱を与え、旋風がそれを巻き上げた。砂塵が木の葉を打ち鳴らし、オアシスの水面がきらきらと音を上げた。
樹々の影が、バルコニーに大きく伸びる。
街が目を覚ました。
そして彼は、そこにいた。
燃えるような赤髪をなびかせ、空を見上げていた。
カナリア色の瞳に宿った光は、才気ばしった俊英のそれとも、打ちひしがれた敗者のそれとも違う。
憂いがある。陰りがある。だが曇りは無い。
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傍らには、イバラの腕輪を身に着けた巫女の姿があった。
彼はイルーシャと目を合わせ、何も言わずに頷くと、身を乗り出して街を見下ろした。
兵士が、民衆が、彼の姿に気づき集まり始めた。
ユシュカはその全てを均等に見渡し、己の掌を見つめ、拳を握りしめた。
「心配をかけてすまない」
よく通る、堂々とした声だ。通りすがりの誰かに素通りすることを許さない、王者の声だ。
「先の戦いの敗北、払った犠牲、全ては俺の甘さが招いたことだ。だがこんな俺にまだついてきてくれるなら……」
彼は拳を己の胸に叩きつける。
「……俺は全てをもってそれに応えよう!」
かつての彼ならば自信にあふれた笑みと共に、爽やかにこの言葉を発しただろう。
だが今は違う。
より重く、より強い。
瞳に輝くのは自負を超えた覚悟の光だ。彼は王として、そこに立っている。
歓声が巻き起こる。王の再起を讃える声が。
夢の続き、見なくちゃな……。ハジャラハの声が蘇った。
これで王は一生、夢の中だ。私は胸の内で呟いた。
覚めることの許されない夢……それが呪いとなるかどうかは彼次第、か。
「ファラザードの王は、これよりゼクレスに向けて出撃する!」
地鳴りのような歓声に熱砂が轟く。
王は颯爽とバルコニーを飛び降りた。
兵士の一人が軍馬を引き渡すと、彼はそれに飛び乗り、街道へ向けて一直線にバザールを駆けぬけた。
兵士たちが慌ててそれを追う。民兵、傭兵もそれに続く。隊列も何もない。ただ熱を帯びた風が砂漠を駆けぬけていく。
「ファラザードが蘇ったわね」
ジルガモットはそう言った。
王は背後を振り返り、速度を調整しながらその熱を先導する。熱を殺さず、走りながら隊列を整えていくつもりだろう。彼はそれができる男だ。
「止まっちゃいけねえのさ」
いつの間にか、ハジャラハもその隣に立っていた。
そして、イルーシャは歓喜に沸く群衆の壁を潜り抜けて私の元に走り寄ってきた。
驚く私を尻目に、彼女は単刀直入に用件を切り出した。
「取引をしてほしいの」
「私に?」
「ええ」
彼女は深刻な表情で私の顔を見上げた。
「私に雇われて」
私は数度、まばたきした。