旅は続く。
ジュレットからジュレー街道を北上し、夏の名残を惜しむキュララナビーチを右手に見送りながら更に北へ。
再び潮の香りが近くなってきた。
渡し舟に乗れば、そこはもうヴェリナード領だ。青ざめた大地をサンゴが彩り、陸生の海藻が風に揺れる。入道雲は依然変わらず常夏の空にそびえ立つ。
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道中、シリルは聞かれるままに様々な知識を披露した。私も王宮に使える魔法戦士として少しは勉強したつもりだったが、彼の学識はそんな付け焼刃など及ぶべくもない、深く広範なものだった。
古代史にまつわる逸話、添えられた詩、各時代を支えた文化と芸術……
私はもとより、ツスクルで学んだリルリラも白旗を上げるのだから、相当なものだ。
青年学者は穏やかに首を振る。
「知識だけだよ。旅のやり方は君たちに教わった」
シリルが爽やかな笑顔を向けると、リルリラは照れ笑いと共に私の背ビレに隠れるのだった。
我々は街道を道なりに進む。そろそろ海の向こうに海上都市ヴェリナードの姿が見えてくる頃だ。
女王陛下のおひざ元。歴史に彩られた白亜の都市。そしてオーディス王子が新たな歴史を刻むであろう場所……
「王子が、ラーディス王以来の男王に?」
シリルが興味を示した。
「ああ、多分なるだろう」
「興味深いね……」
彼は顎に手をあて、思案顔となった。我々の生きているこの時代も、いずれは学者たちの研究対象となるのだろうか。
ヴェリナード、アストルティア、そして魔界の歴史……。
私はふと、魔界情勢についての見解を彼の口から聞いてみたくなった。
もちろん魔界探索については内密のことだから、正面から聞くわけにはいかないが……
「そういえば、これは最近、知り合いの調査員から聞いた異国の古代文明の話で、まだ事実関係もあやふやな話らしいんだが……」
という建前で、ゼクレスの情勢に少し触れてみた。
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厳しい身分制度に支配された国。万民平等の世を目指した王自らの改革と、その失敗。そして後を任された王太后による、より厳しい階級制の制定。
「……王太后は気位の高い女性だったらしいから、貴族優位の政策は彼女の望み通りだったんだろうが……仮に彼女が王と同じ理想家だったとしても、できることは同じだっただろうな」
と、私は自説を展開する。
「反発する貴族階級を抑えて国を安定させようと思ったら、他に方法は無い……平等を目指した王の行動が巡り巡って更なる格差社会を招くとは、随分な皮肉だろう?」
右に行き過ぎれば左に、左に行き過ぎれば右に。人の世は振り子のように揺れ動く。それを御し得てこそ名君と呼ばれるのだが……
「一体どうすれば正解だったのか……シリル先生の見解を聞きたいな」
と、私は青年学者に水を向けた。
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……返事が無い。首をかしげる。視線で促すも、まるでただのしかばねのように無言のままだ。
そして私はようやく、彼の眉間に刻まれた深く太いシワに気付いた。リルリラが私の背ビレにしがみついたのは、今度は照れからではない。
歯を食いしばるシリルの形相からは、先ほどまでの貴公子然とした余裕が失われ、こめかみには脂汗さえ流していた。瞳にはいつか見た空虚が再び宿り、その奥から、底なしの闇が世界を覗き込んでいた。
「シリル……?」
「……ああ、すまない。旅の疲れが出たらしい」
彼は瞳を閉じ、額に手を当てた。瞼を擦り、汗をぬぐうと闇は消えていた。
シリルはどこか虚無的な表情で海を見つめていた。日が沈み始めた。
「さっきの話だけど、政治には興味が無いよ」
波模様の夕陽が海面に揺れる。海鳥の影が横切った。
「僕は美しいものを見るためにここに来たんだ」
フム、と私は腕組みした。
「政治は美しくない、か」
「辛いだけさ」
首を振る若き学者の顔は既に、世間を倦む隠者のそれだった。私とリルリラは顔を見合わせた。彼は続ける。
「ヴェリナードの王子は、どうして王になりたいんだろう」
沈む夕日を見送る波間に、白亜の海上都市が見え隠れする。夕陽を照り返す貝殻仕立ての城壁がひときわ強く光を放った。
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その輝きから目をそむけるように、彼は俯く。
「王なんて辛いだけなのに……。逃げ出したいとは思わないのかな」
シリルは全てを知り尽くしたような疲れた顔で、足元を見つめていた。
(続く)