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貝殻をモチーフにした優美な城壁。花びらのような多重構造の町並みが訪れる者の瞳を惹きつける。建物の多くは曲線を多用したデザインで、街を駆け巡る水路は緩やかなカーブを描いて中央の泉へと流れ落ちる。
その水路に沿って、人も流れる。住民、観光客、出稼ぎの商人に合成屋目当ての冒険者……人の流れと水の流れがこの街の動脈だ。注がれて、流れて廻り、あるいは排出される。
これが海上都市ヴェリナード。ウェナの海に咲く一輪の花である。
シリルは瞳を輝かせた。
「ようこそヴェリナードへ」
私は芝居がかって一礼した。
「無事、遠方からの客人を送り届けられてホッとしたよ」
これにて護衛は完了。シリルとの旅もここが終点だ。
せっかくだから、と私はこの街の"名物"の見学に彼を誘った。
「名物?」
「ホラ、あれだよ」
リルリラが宮殿を指さした。シリルが見上げる。彼だけではない。街中がシェルブリッジに視線を注ぐ。その先にあるのは宮殿から城下を見下ろす巨大なバルコニーだ。時計塔が鐘を鳴らすと、貝殻の城壁が扉を開く。
最初に槍を持った衛士達。そしてラッパを鳴らす楽隊。
その奥から現れたのは、黒いドレスに身を包む真珠のような美女である。街中が見惚れたような溜息をつく。私は胸に手を当て、かしこまった。
凛々しくも美しいご尊顔を飾るのは、陽光を照り返して輝く王冠。威厳ある表情で片手を天にかざし、聴衆の歓声に応える。
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「あれが女王ディオーレ……様」
シリルが誰にともなく呟いた。
そして女王陛下の後ろから赤いマントをなびかせた青年が入場する。先ほどよりやや小さな歓声。さわやかな笑顔で返す。
「オーディス王子だ」
私はシリルに耳打ちした。
「女王と、その息子……」
シリルは二つの影を凝視した。その脇から、ひょっこりと現れる小柄な影がある。
「あれは?」
「メルー公だ。陛下の夫君であらせられる」
公は人懐っこい笑みを浮かべ、観衆に手を振った。
「絵になるだろう?」
凛々しき美貌の統治者と、少し頼りないが生真面目なその息子、そして間を取り持つ小太りの朗らかな男。
シリルは、その姿に言葉を奪われたのだろう、口を半ば開き、熱に浮かされたような視線を三人へと注いでいた。
やがてメイン・イベントが始まる。
拍手が鳴りやみ、空気に静寂が染み渡ると、陛下は進みでてそっと唇を開かれた。
声が響き渡る。美しく、凛と透き通った歌声。
これは恵みの歌。
女王の唇が王家に伝わる呪歌を紡ぐ。と、水路の水が淡く輝き始める。水の汚れを清め、魔を退ける儀式である。
美しい歌声と共に輝きが街を流れ、中央の泉へと注がれる。その光景は各地を流れる光の河の力強さともまた違った、柔らかで神秘的な光景だった。
そしてここからが「本番」だ。
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後ろに控えていたオーディス王子が一歩、進み出る。そして女王の隣に立ち、大きく息を吸い込んだ。
シリルが身を乗り出した。
女王が奏でる高く細い旋律に、もう一つの音色が混ざり始める。
合唱を始めたのだ。
シリルの背ビレが雷に撃たれたようにピンと伸び、硬直した。
繊細で美しく、精緻な女王の歌声に比べれば、王子の歌声は洗練にはほど遠い。粗削りなものだ。
だが母の歌声に必死で追いすがるその音色は若く、力強く、確かな意志を宿していた。メルー公はそれを厳かに見つめる。
父の見守る中、母と子の意志が水に宿り、その光が国の守りとなるのだ。
シリルの肩が微かに震え始めた。その瞳には涙すら浮かんでいるようだった。
無理も無い。我々ウェディにとって女王陛下は特別な存在だし、恵みの歌は一生に一度は見ておきたい、ありがたい儀式なのだ。
だから、女王が歌い終えて扉の向こうに消えるまで、彼がじっと熱い視線を注ぎ続けていたとしても、私は何の違和感も抱くことはなかった。
頃合いを見計らって私は声をかける。
「見応えがあっただろう? 母と子の共演だ」
「ああ……」
感無量、とでもいうのだろうか。言葉少なに彼は答える。だがどこか暗さを感じさせる表情に私は疑問を抱いた。
やがて彼の口から呟くような言葉が零れる。
「……羨ましいな」
細い指が震え、弱弱しく拳を握った。
「僕にとって、母は……」
リルリラが首を傾げた。
「女手一つで育ててくれたんでしょ? 立派な人だったんじゃないの?」
彼はしばし言葉を止め、やがてゆっくりと絞り出した。
「……炎のように激しく、美しい人だった」
それ以上は何も語らなかった。私もリルリラも深く追及するわけにはいかず、顔を見合わせるばかりである。
「ま、王子と陛下も今でこそああだが、昔は色々あったようだぞ」
彼は答えなかった。話はそれで打ち切りとなった。