さて、そろそろ別れの時だ。シリルに評判の良い宿を紹介し、我々は宮殿へ向かう。
宿帳に記入をしようとするシリルに、私は最後のアドバイスを授けてやった。
「確認するが、シリルというのは本名か?」
「!?」
彼は大層驚いた顔をした。
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「勿論そうだけど…何故?」
「お忍びなんだろう? 本名は伏せた方がいい」
彼は身分を隠してはいるが、本来、ヴェリナード貴族の落胤なのだ。彼はまるでそのことを忘れていたかのような顔だった。
「何か別の通り名とか、無いのか?」
「ああ、そうだね…別の名前…」
と、その時、団体客が押しかけ、急かされるようにして彼は名前を記入した。
リルリラが問いかける。
「何て書いたの?」
「いや…頭に浮かんだ名前をとりあえず書いただけさ」
バツが悪そうに彼は答えた。私は宿帳を横目に覗き込んだが、よく見えなかった。アス…から始まっていたか? もっとも、知らない方がいいだろう。
ともあれ、これがヴェリナードでの彼の名前となるわけだ。その名に幸あれ、とでも言っておこう。
これで私が彼にしてやれることは何もなくなった。
外に出ると、雲間から顔をのぞかせた太陽がまばゆい光で街を照らす。行き交う人々の影は柱より長く伸び、私とシリルの間を何度も通過していった。
シリルは最後に、とリルリラに声をかけた。私は何となく気を遣って少し離れていたが、声は聞こえてきた。
光と影が交差する中、彼はやや頭を下げたようだった。
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「昨日は…無神経なことを言ってしまったようだね。謝罪させてほしい。…こんな風だから、世間知らずと言われてしまうんだろうね」
「べ、別にいいって! 私が気にしすぎただけだし」
エルフは慌てた様子で両手と首を左右に振った。影から覗くシリルの眼差しは、あくまで真摯だった。
「君は望まぬ環境でも歯を食いしばって生きている。そういう強さを尊敬するよ」
「そんなんじゃないってば」
リルリラは押し留める様に掌を彼に向けた。
「私はそれなりに楽しんでるし、不自由って程でもないし…僧侶の仕事も、悪いもんじゃないしね」
彼女は胸元の聖印を爪で弾いた。彼女の夢をかなえてくれなかった神は、今も彼女と共にある。小気味良い音を鳴らして回転した聖印が陽光を跳ね返し、ヴェリナードの噴水に光を投げかけた。飛沫が輝く。
「私が僧侶をやってたからミラージュの手伝いができて、あちこち旅もできたし…シリルさんとも会えたもんね」
彼女は私の方に駆け寄り、悪戯めいた笑顔を青年に送った。
「僕も君たちに出会えて嬉しかったよ」
シリルは穏やかに微笑んだ。そして空を見上げた。眩しそうに。
かつての夢はかなわなくても、リルリラは自分の人生を楽しんでいる。シリルは自由を求める。
私はといえば、少年時代の念願かなって魔法戦士となったはいいが、その実情は思い描いていたほど華麗でもなければ優雅でもなかった。
規則や組織間の関係に束縛され、"美しくない"政治とも無縁ではいられない。別に嫌々やってるわけではないが…プディングの味は食べてみなければわからないのだ。
シリルはこれから何を口にして何を味わうだろう。ケ・セラ・セラ。明日のことなど分からない。
「…さて、そろそろか」
私が切り出すと、シリルも頷いた。
「何から何まで世話になったね。本当にありがとう」
「立派な先生になってね!」
リルリラが元気よく手を振る。私も頷く。
「君ほどの博識家なら、王室御用達の学者も夢じゃないと思うぞ」
「王子様専属の家庭教師になったりして」
私はエルフと笑い合う。
「それもいいかな」
シリルは真顔で呟いた。我々は一瞬、顔を見合わせた。彼は苦笑した。
「興味深い人物だと思うよ、オーディス王子は。それに、女王陛下も」
どうやら、よほど先の儀式に感銘を受けたようだ。次に会う時は同僚としてかもしれない。
「さよならだ。君達の事は忘れないよ」
「君の成功を祈っている」
「元気でね!」
我々は名残を惜しみつつ、別々の道を歩き始めた。
人の波がうねりを打てば、彼の姿はもう雑踏の彼方に消えていた。
「行っちゃったね」
エルフが寂しそうに呟く。
ウェナの水は、ただ淡々と流れ続けていた。
それから数日後。
魔瘴の風が吹く大地に、私は三度降り立っていた。
メイク師マギダスの手を借りて私は魔族、リルリラは妖精に扮し、猫島から猫魔道のニャルベルトもやってきた。こちらは変装の必要なし。
頭上に輝く魔界の太陽が、雲を複雑な色に染める。
混沌とした空模様は、千々に乱れた魔界の情勢をそのまま映し出すかのようだった。
「さて、行くか」
私は号令をかけた。
再び、旅が始まる。
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(この項、了)