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バルディスタに吹く風は、鉄の匂いがする。
歩く者を上から抑えつけるような、重く固い風だ。
街を歩く住人の表情も固い。だが、安堵してもいる。
今日はまだ、鉄の匂いに血の匂いが混ざっていないことに……
どんよりと淀んだ空気の中、彼等は誰とも目を合わさぬよう、目抜き通りを足早に通り抜けていった。
私の名はミラージュ。ヴェリナードに仕える魔法戦士である。
魔界探索を命じられた私は、小妖精に姿を変えたエルフのリルリラ、猫魔道のニャルベルトをつれ、魔族の旅商人としてこの街にやってきた。
そして到着するや否や思わぬ戦闘に巻き込まれ、バルディスタの現状を知ったのである。
いや、思い知らされた、と言うべきか。
ため息しか出てこない。まったく、ひどい有様だった。
あの魔界大戦から数か月。魔王ヴァレリアを失ったバルディスタの治安は劇的に悪化していた。
ならず者が街を闊歩し、野盗の襲撃も日常化。もはや秩序は完全に崩壊したかに見えた。
だが、街は生きている。
住民の多くはバルディスタを捨てなかった。というより、捨ててどこかに行けるだけの力が無かったのだ。
力のないものは寄り集まり、団結し、自警団を結成する。
酒場の女主人、ジャンビもその一人だった。
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私は今、ジャンビの協力者としてこの町に滞在している。見返りは軍の№2にして酒場の常連客、ベルトロとのコネクション。
彼と接触し、バルディスタの今後の展望を知るために……
……ある時はゲルヘナと往復して不足した物資を搬入し、ある時は街を襲う野盗と戦い……御用商人と用心棒の二足わらじ。私は忙しい日々を送っていた。
「よう、お疲れさん」
ゲルヘナからの積み荷を降ろしていると、小柄な男が片手を上げた。虫も殺さぬ笑顔の中に油断ならぬ空気を忍ばせた、いかにもやり手ふうの男だ。
彼の名はピッケ。裏通りのバザーを取り仕切る闇商人であり、私の顧客の一人である。仲介人はジャンビ。
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「助かるぜ。バザーが回らなくなる時が、街が死ぬときだからな」
彼は腕組みし、市の様子を一瞥した。
表通りはまるで戒厳令でも敷かれたように静まり返っていたが、雑貨市には表情こそ陰気ながらもそれなりの数の客が集まり、日々の買い出しを行っていた。
買い出し中に賊に襲われれば死ぬが、食わなくても死ぬからだ。
ピッケは私以外にも複数の冒険商人と契約し、流通経路を確保している。危機的状況にあっても、市を畳む気は全く無いそうだ。それどころか……
「こんな戦乱の世でも俺様の闇バザーならいろんなブツがそろってるぜ」
客の背を叩き、不敵な表情で見栄を切る。ヴァレリアがいた頃は圧倒的な軍事力だけが目立っていたバルディスタだが、こうしてみるとバルディスタの強みは武力だけではない。
むしろ武力という柱が崩れた今だからこそ、柱を支えていた土台の強さが見えてきた、と言えるだろう。今この時、街を支えているのは間違いなく、力なき市民だった。
だが留まる者があれば去る者もある。別の日にはこんな場面にも出くわした。
ジャンビの店で保護されていた子供を家まで送り届ける道中のことである。
私と護衛の傭兵達は物陰に潜む気配を察知し、誰何の声を上げた。その影は一瞬、痙攣するように震えると、キョロキョロとあたりを見渡し、両手を上げて姿を現した。
「ア、アンタら、城の兵士じゃないんだな?」
おずおずと現れたのは、ボロ布に身を包んだ青年である。だが布の合間から黒い金属製の鎧が見え隠れする。バルディスタ軍制式のブラックアーマーだとすぐにわかった。
彼はホーゲンと名乗った。
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聞けば、彼は軍を脱走し、街から逃げ出すつもりなのだという。その逃避行の最中、帯刀し徒党を組んだ我々を軍関係者と見間違え、咄嗟に隠れてしまったらしい。
彼は頭を掻きながら肩をすくめた。
「正直、この国はもうダメだしな……悪いとは思うけど、俺だって死にたくねえよ……」
私の陰に隠れた子供がホーゲンを見上げる。彼は慌てて目をそらした。
「それじゃ……俺はこれで……」
咎める者はいなかった。
にも関わらず、彼は呼び止められたかのように振り返って言った。
「いや、マジで悪いと思ってるんだぜ? けど俺だってやるだけはやったし、もっと早く抜けた奴も一杯いるんだしよ……こんな状況じゃ、誰だって……仕方ねえって!」
一体、誰に言い訳をしているのか……彼は早口でまくしたてた。そして後ろめたそうに何度も振り返りつつ、青年は裏通りを駆けていった。
誰も追わなかった。
妖精のリルリラは私の頭の上でそれを見送り、宙に頬杖をついた。
(続く)