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畏怖すべき名に誰もが耳を奪われ、あるいは震えあがった。
だがギャノン弟は動じない。理由は単純。頭が悪いのだ。
彼は手近な部下の首を掴むと問いただした。
「おい、アイツ今なんて言ったんだァ?」
「ヴァレリア様が生きてるって……」
「なぁにぃいい!?」
ギャノンは部下を絞め殺すと更に問い詰めた。
「あいつは死んだだろうがァァ! なんで生きてんだよォォ!」
返事が無い。ただの屍のようだ。
「おい、聞いてんだろ! 答えろ!」
いつまでも答えが返ってこないことに苛立った彼は報告者を投げ捨て、別の部下を捕まえようとした。だが察知した部下達は手の届かない位置に退避済みである。
彼はますます苛立ち、手にした鉄塊で周囲を大きくひと薙ぎした。配下連続撲殺! 少し苛立ちが収まった。
「お前らついてこい! あの野郎を捕まえるぞ!」
ギャノン弟は号令を下す。ついてくるものはいなかった。今死んだからだ。彼は気づきもしない。一人、役者を追う。
ナギは次々に建物を飛び移りながら歌うように声を張り上げる。
「哀れギャノン、我が言葉疑うか。我が将、既にゼクレスにあり。一廻りの内に、我らが魔王をガウシアの樹海より連れ戻さん」
「うるせェェ! てめぇを殺せばいいんだろォォ!」
「待て弟ォォ! 殺すのはヴァレリアだァァ!!」
制したのはギャノン兄だった。どうやら弟より少しだけ賢いらしい。
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「ヴァレリアを殺さなきゃこの国は奪えねえんだよ弟ォ! ガウシアとか言ったなァ」
血の匂いのする笑みを彼は浮かべた。獲物を見つけた野獣の笑みだ。
「一度死にかけた野郎だ! 生きてようと手負いに違いねえ! 今の内にヴァレリアを叩く!」
彼は宣言する。撤退の合図だ。
「こいつらどうすンだよォ、兄ィ!」
「ヴァレリアの前に戦力を消耗するのはつまらねえ。後のお楽しみにとっておこうぜェ! 弟ォ!」
「さすが兄ィは賢いぜェェ!!」
もはや戦いの傷など忘れたかのように哄笑し、彼らは大股に街を去っていった。
バルディスタ兵は追わない。我々もそうだ。
私自身、情けないことだが敵が引いてくれたことに感謝していた。
バルディスタの旗はボロボロになりながら、城壁の上で揺れていた。
* * *
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ギャノン兄弟が撤退すると、兵士の半数がその場に座り込んだ。
ダボウはまだ筋肉を緊張させたまま敵の去っていった方角を睨んでいた。残心の構えである。
スライド達はひょっこりと隠れ家から姿を現し、医療関係者は負傷者をテントへと運ぶ。軍医のロア先生や、薬剤師ボイア女史の姿もあった。
負傷したホーゲンがロア先生の荒っぽい治療を受け、情けない悲鳴を上げる。救われた母子が礼を言いにテントを訪れたのはその時だった。ホーゲンはばつの悪い表情で迎える。英雄らしからぬ、彼らしい顔だった。
私は城門前でナギの姿を見つけると駆け寄り、声をかけた。酒場の看板娘、ミゼリ嬢もいる。先の舞台の小道具担当である。
「戦場であの役者ぶり、見事なものだな」
「ああ、キミか。まあ腕力だけが力じゃないからね」
こともなげに彼は言った。成程、と頷きつつ、私は周囲に注意を払いつつ声を潜めて腰を落とした。
「……だが、本当なのか? ヴァレリア様のこと……」
「さあ」
無責任に首を振る。私はやや拍子抜けした。ミゼリがくすっと笑う。
「少なくともベルトロ様からそういう連絡はあったよ。ヤバくなったらこの情報を相手に渡せともね」
「自分自身を囮にしたわけか」
「ま、あの方のことだからそれだけでもないだろうけど」
どうやらヴァレリア捜索のため、ベルトロがゼクレスに赴いていること自体は間違いないようだ。
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「あとは戻ってきた時、ヴァレリア様と一緒かどうか。一人で戻ってきたらご愁傷様」
達観したような淡々とした表情でそう言うと、彼は改めて輸送用の荷物を私に受け渡した。医療品の類が大量に追加されている。
「ヴァレリアが戻るまで、か」
私がつぶやくと、ミゼリが花の咲くような笑顔を見せ、細腕で力こぶしをつくった。
「少なくともそれまでは街を守らなきゃね。戦ってる人の帰る場所になるのがミゼリたちの仕事だもん」
彼女は街を見つめた。いまだ黒煙を噴き上げる城下町に、ジャンビの酒場がある。窓がいくつか割れ、壁にはひびが入っていたが、健在である。
ヴァレリア健在の報が知れ渡れば襲撃者の数は激減するだろうが、それでも命知らずの無頼漢や生存を信じぬ者、危険因子はいくらでもある。事実、このあとも数度の襲撃があった。
だがバルディスタは折れなかった。
翌日、ピッケは早くもバザーを再開した。衛兵も包帯を鎧に隠して持ち場につく。
そして彼らは王の帰還まで、見事にこの街を守り抜いたのである。