ジャムリバハ砂漠の砂が風に巻き上げられ、街道を薄く覆う。愛馬の蹄がそれを蹴散らし、砂の海を悠々と横断する。
休憩のたびに私はゼクレスの話をせがみ、魔瘴の巫女は千夜一夜の物語を語る姫の如く、魔王の物語を口ずさむのだった。
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ゼクレス魔導国は魔界で最も古く、伝統ある国家である。だがその伝統ゆえに身分による貧富の差も激しく、内部に不安を抱えている。
そんな中、先の大戦が勃発。王太后エルガドーラが戦死し、国内の不安と不満は膨張。跡を継ぐべき魔王アスバルは部屋にこもりきりで、エルガドーラの弟であるオジャロス大公が政務を取り仕切っているという状況だったが……
「……つまりオジャロスは政権奪取を目論んでいたと?」
「うん……そういうことになるみたい」
それに気づいた魔王アスバルが叔父を弾劾。戦いの果てに政権を取り戻した。魔瘴の巫女として各地を旅するイルーシャは、ちょうどその現場に居合わせたらしいのだ。
「色々あってね……一言では言えないけど、大変だったのよ」
彼女は秘密めいた笑みを浮かべた。そのあたりはどうも"差し障りのある"部分らしい。
それにしても、公務を放棄して引きこもっていたはずのアスバル王が、突如として粛清に踏み切るとは……
「魔王アスバル……どういう人物なのです?」
「そうね……とても優しい人に見えたわ」
彼女は砂漠の砂を指でなぞった。
「ユシュカも優しいけど、彼とはちょっと違うみたい。争うのが嫌いな人なのかな……」
ユシュカ王も決して争いを好む王ではないが、自分の才能を世に示すことには積極的なタイプだ。そこに障害があるなら、全力で取り除く。
アスバルはそうした衝突を避け、一歩引いて道を譲るような奥ゆかしい人物なのだそうだ。貴公子とでも言うべきか。
そのアスバルが断固とした処置に出るのだから、相応の理由があったに違いない。
「彼も初めは話し合いでどうにかしたかったんだと思う。でも……」
「決裂した、と」
「オジャロスさんのしたことは彼にとって、一番許せないことだったんじゃないかな……」
それが何なのか。彼女は語ろうとしなかった。
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「……しかしアスバル王は政務を放棄していたのでしょう」
私は指先で手近な石ころを弾いた。
魔界大戦の敗北で傷ついたゼクレスを立て直すのは、彼の義務だったはずだ。腹に一物ありとはいえオジャロスがそれを代行する間、彼は部屋に引きこもっていたにすぎない。
「そのオジャロスを排除した以上、国民からは厳しい目を向けられているのでは?」
「ううん……どうだろ……」
巫女は困ったような顔をした。
彼女の見たところによれば、国民の大半はアスバルの復帰を喜んでいるそうだ。血統主義のゼクレス。多くの者は高貴な血筋の正当な後継者が国を治めるを望んでいる。
オジャロスは所詮傍系であり、その時点で大きなハンデがあった。実績を残したところで、所詮は劣った血筋……というわけだ。
「それに、アスバルは身分に関係なく有能な人は取り立てるって宣言したから、お金のない人たちにも喜ばれてたみたい」
「……イーヴ王の血筋ですかな」
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彼の父イーヴも極端な身分制度を打破しようと貴族たちに働きかけた。だが急激な改革は反発と混乱を招き、イーヴ王は失脚。その反動でエルガドーラ妃による厳格な身分制が敷かれ、今日まで続く混乱の一因となった。アスバルは父と母の遺産を受け継いだ形だ。
今は血筋ゆえに彼を支持している貴族層も、その政策には苦々しい思いをしているのではないか。彼の足場は非常に不安定なものに見える。何しろ、彼には何の実績もないのだ。
「確かに、オジャロスさんが裏切ったなんて信じられない、って言ってる人もいたみたい」
イルーシャは頷いた。
内心がどうあれ、戦後復興の柱としてオジャロスが果たした役割は大きい。アスバルにとっては、これからが正念場となるだろう。
「多分、大丈夫だと思う」
「何故そう思うのです?」
「それは……」
彼女はまた指で砂をかき混ぜた。描かれた模様を風がさらっていく。考えがまとまらないようだった。
その日はディンガ交易所のテントで一泊し、翌朝、我々はまたデスディオ荒原に向けて出発した。
(続く)