「そうですか……そちらも大変だったのですね」
ティーカップから離れた女神官の唇が思慮深げな声を紡ぐ。頭から延びる二本角は魔族のそれとは少し違う、竜の角だ。
薄桃色の髪が照明に照らされて淡い色に染まる。そしてその表情もまた、悩ましく物憂げな色調で端正な顔立ちを彩っていた。
彼女の名はエステラ。竜の国から来た女。
そして私の友人である。
「……あなた方の苦労に比べれば、大したものではありませんよ」
私は茶を受けながら一瞬、その水面を覗き込んだ。毒など入っているはずもないが……。こんな場所で差し出された飲み物を口にするのには、少々の勇気が必要だ。
隣ではリルリラがあっけらかんと茶を口に含み、再会の笑みを女神官へと向ける。水面に映るのは間の抜けた私の顔だけ、か。
茶を口にする。心地よい香りとぬくもりが喉から胸へと抜けていく。あらためて目の前の女神官をみつめる。そしてその隣に控える小柄な男を。
ここは大魔王城の一室。そして彼らは勇者の仲間であり、この城の客分である。
……この一言を飲み込むまでに、どれだけの疑問符を乗り越える必要があったことか。
「あなたの声を聞いた時は、腰を抜かしましたよ」
「それはこちらも同じです」
エステラ嬢は穏やかに微笑んだ。
彼女はかつて私がナドラガンドを探索していた頃に出会った人物だ。当時は一神官の立場に過ぎなかったが紆余曲折を経て、今では竜族の中心的存在となっている。
文化交流を目的にアストルティアに留学中とは聞いていたが……勇者姫が彼女を旅の仲間として選んだことは私にとって意外だった。
ましてそんな彼女が、この城で客分として暮らしているなど……。
「正直、驚きは隠せません」
「それはそうでしょう」
女神官は頷き、そして少し微笑んだ。
「リルリラさんの姿にも驚きましたが」
「……少し縮んだかな?」
リルリラはとぼけた表情で首をかしげ、妖精の羽をはばたかせた。互いに笑いあう。神に仕えるもの同士、二人は仲が良かった。
私は紅茶をテーブルに置くと、緩んだ表情を改めた。
「……状況をお聞きしても?」
「ええ、ぜひ聞いてください」
女神官は語り始めた。
勇者と共に魔界へと下り、幾多の冒険を共にしてきたこと。
ついに大魔王の城へと至り、三人の魔王と死闘を繰り広げたこと。
そして勇者と大魔王の一騎打ち……
「まるでおとぎの国の英雄譚だな……」
「おとぎ話であってくれれば、どんなに良かったか……」
彼女は嘆息した。城壁に残る真新しい傷跡は、過酷な現実の証である。
「そして、大魔王の正体は……」
一呼吸おいて、女神官が核心に触れる。
遠くで雷鳴が響いた。
……私は危うく紅茶をテーブルにぶちまけるところだった。テーブルクロスの染みが数滴で済んだのは、むしろ褒めてもらいたいところである。
「それは……本当なのですか?」
「ええ」
彼女は頷く。傍らに控える男が拳を震わせた。眼鏡が揺れる。彼もまた勇者の仲間である。エテーネ島出身の神官で、名をシンイという。私とは初対面だったが、相当な実力を秘めているそうだ。
女神官は気づかわし気な視線を彼に送り、再び話を続けた。
勇者と大魔王。魔仙卿の謎めいた行動。そして邪神の暗躍。
「今はアストルティアと魔界が争っている場合ではない……魔王達はそう言っていました」
再びの雷鳴。稲光が影を浮き彫りにする。沈黙があった。
そして混乱と疑問の渦の中で、薄情なまでに澄み切った理性が単純な理屈を組み上げていた。
『当然の話ではないか』
……魔瘴の汚染が魔界を覆い、やがてアストルティアをも襲う。ならば侵略も戦いも意味はない。共に手を取り合って脅威に立ち向かうべし。
そう、理屈は単純だ。
だがその単純な理屈に至るまでに、なんと大きな犠牲を払ってきたことか。
徒労感とむなしさが胸を突き抜けた。若干の怒りも。
魔界とアストルティアの戦い。魔界大戦。戻らないものはいくつもある。
「今更……そのようなことを……」
シンイは独白するようにつぶやいた。
払った犠牲が溝となり、単純な結論への道を阻む。
そしてそれが更なる犠牲を生む。
私は静かに紅茶を口にした。大分、冷え始めていた。