一夜明けて、空には暗雲。デスディオ荒原に天気という概念はない。定期的に鳴り響く雷鳴にもそろそろ慣れ始めていた。
大魔王城の内装は荘厳にして美麗、そして暗くおどろおどろしい。
そこに漂う空気もまた冷たくとげとげしく、立ち入る者の肌と心臓を容赦なくえぐり刺す……
……というわけでもなかった。
「なんか、微妙だね」
と、リルリラが言う通り、城を警備する兵士たちにはどこかギクシャクした空気が漂い、何やら気まずそうにチラチラと互いの様子をうかがっている。掃除役のおおきづちがその間をドタバタと駆け抜けていき、猿顔のグーシオンがバタバタとコウモリ羽をはばたかせる。どうにも騒がしく、まとまりが無い。
それもそのはずで、この城に集められた兵士や魔物達はファラザード、バルディスタ、ゼクレスの各地から集められた精鋭……あるいは寄せ集めの寄り合い所帯である。
共同戦線というだけならともかく、同じ場所で生活するとなれば文化の違いがモロに出る。結果、大魔王城には侵入者への威圧感以上に、お互いを意識しあう気まずい雰囲気が溢れ出ているのだった。
「大魔王の治世もまだ始まったばかり、らしいな」
私は独り言ちた。つい先日まで敵国として争っていた彼らだ。溝が埋まるには相応の時間が必要だろう。
共通の大敵でも現れない限りは。
そしてそれは我々と魔界にも言えることだ。あの若い神官、シンイの例を見るまでもなく魔界との共闘に難色を示す者は少なくないだろう。
「共存への障壁は数多い……というわけだ」
だがそれらと向き合う前に、差し当たって回避すべき障壁が一つあった。
それは弛緩した大魔王城の空気を瞬時に凍てつかせる鋭い眼光と冷気を宿した、一人の女性だった。
凍気をはらんだその黒鎧を、遠目に見たことがある。戦場の熱気をも凍らせる冷たい瞳。身に纏う恐怖の衣。美しきルージュ。
魔王ヴァレリアがその瞳を鋭く尖らせ、私を睨みつけていた。
「貴様がベルトロからの使者だと?」
「ハ……」
私は跪いてバルディスタ謹製の通行手形を取り出した。魔王はそれを一瞥するとフン、と鼻を鳴らした。
「ベルトロ様より状況を確認せよとの……」
「建前はいい!」
私は用意しておいた口実をそのまま述べようとして、途中で遮られた。
「貴様も勇者の一味か」
私がエステラ嬢の知り合いであることは当然、城中に知れ渡っている。冷たい視線が降り注ぐ。冷汗も即座に凍り付く気分だ。リルリラは背中に隠れる。ニャルベルトのしっぽが震えた。
氷の魔槍が魔王の手元に顕現する。返答次第では、次の瞬間にも私の体を貫くだろう。
私は慎重に言葉を選んで口を開いた。
「配下というわけではありませんが、縁があります」
「歯がゆいな。何が目当てだ」
「無用な争いを避けるためです」
私は魔王の瞳を見上げた。視線だけで押しつぶされそうになるプレッシャーをどうにか跳ねのける。ヴァレリアは油断なき鉄の眼光で私を観察していた。
遠雷。
魔王が氷槍を持ち上げる……私は動けない!
……と、突然、空気が変わった。
凍てつくばかりに張り詰めた空気が別種の、同じくらいに分厚く力強い空気に侵食され、せめぎあう。
私の背後から、気品のあるゆったりとした足音が聞こえてくる。そして柔らかく優しげな声が響いた。
「取り込み中、失礼するよ」
ヴァレリアが私から視線を外した。眼光が鋭さが増す。だがその男は、魔王の凝視を軽く受け流し、笑みを浮かべるのだった。
「やはりミラージュ……それに、君はリルリラだね?」
「えっ……!?」
真っ先に振り返ったのはリルリラだった。つられて私も振り返る。
私はあんぐりと口を開けた。
細面の端正な顔立ち。育ちの良さそうな柔和な表情。貴公子然とした立ち居振る舞い。豪奢な衣装に身を包んではいるが、確かに見覚えがあった。
「シリルさん!?」
さすがのリルリラも羽が止まった。落下しかけるのを掌に受け止めて、私は声の主に向き直った。
確かに、ウェナ諸島を共に旅した、青年学者のシリルだった。
だがその顔に耳ヒレは無く、頭には捻じれた二本角がある。
呆然とする我々をよそに、シリルは一歩、ヴァレリアへと歩み寄った。
「ヴァレリア。疑う気持ちはわかるけど、彼らは信用できるよ」
「その貴様の言葉を、何故私が信用すると思う?」
今度はシリルに槍を向ける。魔王の槍を。だがシリルの表情には一片の恐怖すらなかった。
彼は堂々と言い放った。
「魔王アスバルの名にかけて、保証しよう」
私の視界がぐらりと傾いた。