その少年が、怨嗟の叫びと共に闇の中へと消えていくのを、私は無言のままに見送っていた。
カチリと小さな音がして、彼のいた場所に細い縫い針が落ちた。拾い上げようとするとそれはたちまちの内に朽ち果て、消し炭のような黒いチリだけがそこに残った。
風が吹くと、少年が残した真っ黒な燃えカスは部屋の隅へと追いやられ、埃と混ざって見えなくなった。
ふいに窓から光が差し込んだ。ゼクレス城のステンドグラスは高貴にして神聖ならざる輝きで彼のいた場所を照らす。
僧侶のリルリラは両手を祈りの形に組み、弔いの言葉を唱える。彼の魂に安寧あれと。
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……私はつい、間の抜けた言葉を口にしてしまった。
「私も祈った方がいいかな」
彼女は祈りを中断し、こちらを振り向いた。
「無理にやらなくてもいいと思うよ」
そして祈りを再開する。私がやっておくから、と言わんばかりに。
そんな彼女を偉いと思いつつ、私はまだ祈れずにいた。彼の所業を思えば、どうしても躊躇があった。
ただ、妖精の紡ぐ祈りの言葉に誘われるように、彼のいた場所をぼんやりと眺めていた。
少年はかつて、ベーチの名で呼ばれていた。
その本名を、オジャロスという。
* * *
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「一つ、奇妙な仕事を引き受けてくれるかい?」
魔王アスバルの、その言い回しこそ奇妙だった。
私の名はミラージュ。ヴェリナードに仕える魔法戦士だが、今は魔界とアストルティアの共闘に向けてこの魔界で様々な仕事をこなしている。
今回の依頼主は魔王アスバル。大物だ。彼によれば、ゼクレス城の一室に最近、亡霊が住み着いたというのだ。
無論、魔王アスバルの超魔力をもってすれば、怨霊一匹消し飛ばすくらい造作もない話なのだが……
「今回は……そういうわけにもいかなくてね」
魔王の物言いにしては歯切れが悪い。今にして思えば、成程という感想だ。
オジャロス大公は王太后エルガドーラの弟。ゼクレス乗っ取りを目論んだ反逆者であり、アスバルの叔父でもある。
たとえそれが幼き日の残留思念に過ぎないとしても……あるいは、だからこそ……力ずくで排除するのは躊躇われたのだろう。
ゼクレス城を訪れた我々はベーチの名を名乗る少年の霊と対面し、彼の望みをかなえてやった。
そしてその魂は今、闇の彼方へと消えていった。
一件落着、というべきなのだろう。だがステンドグラスから差し込む鮮やかな光とは裏腹に、私の心には霧が立ち込めていた。
ベルヴァインの森を覆う、湿った霧だ。
私は彼が宝物と呼んでいた人形に目をやった。可愛らしい少女の人形。エルガドーラの面影があった。
彼は何故、反逆者となったのか。
私には彼のために祈ってやることはできないが……
オジャロス少年とエルガドーラ、そして先の魔王イーヴの在りし日々について想いを巡らせることで、せめてもの弔いとさせてもらうとしよう。
* * *
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オジャロス少年は王家の遠縁の生まれ。決して愚鈍ではないが一族の中では才に劣り、容姿も優れたものではなかった。
姉のエルガドーラが才色兼備であったこともあって両親は彼を嫌悪し、徹底して無視し続けたようだ。
「誰も僕に構ってくれなかった」
とは、怨念と化したベーチ少年の独白である。
彼の居場所は姉の隣だけ。古株の侍従によれば、エルガドーラの後ろをオマケのようにトコトコとついて歩く姿が印象的だったそうだ。
ベーチとはその姉からつけられた名だ。古代語で、豚を意味する。
「アナタのことは私が面倒をみてあげる。そのかわり、永遠に従順なブタでいるのね!」
……結局、姉との関係も良好とは言えなかったわけだ。
それでも彼は姉の傍に侍り続けた。姉だけはまだ、無視せずに自分を傍においてくれる。
「僕をひとりにしないで」
そんな悲痛な叫びが、オジャロスの暗い少年時代を象徴するものだった。
彼は肌身離さず、あの人形を抱いていたのだという。自分だけのエルガドーラを……。
いつの日か美しい姉が、自分に振り向いてくれるかもしれない。オジャロス少年には、そんな期待があったのではないか。
だが、彼女を振り向かせたのはオジャロスではなかった。
美しく聡明な魔王イーヴ。エルガドーラは彼に見初められ、恋に落ち、やがて結ばれた。
エルガドーラと魔王の並び立つ姿は、彫像のように完璧な「美」そのものだったという。
絵にかいたような美男美女。理想的ロイヤルウェディング。
出会うことが定められていた、一対の人形。
その美しさを目の当たりにしたとき、彼は復讐を決意したのだ。
自分に振り向かなかった姉に。姉を奪った王に。父に、母に。彼を救わなかった、美しい世界に。
……少なくとも、残留思念の語るところによれば、そういうことである。