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女将の身の上話が始まった。私にとっては酒の肴にちょうどいい。常連客は肩をすくめ、リルリラはわくわくと目を輝かせた。
「あたしが暮らしてたのは小さな国さ。平和って程じゃないけどそれなりに安定してた。……ところが、そこに怪物が現れた!」
彼女は何かを鷲掴みにするような仕草で大げさに身体を開く。
「怪物は王女を連れ去って、返してほしけりゃ国をよこせって言いだした。つまりあたしは囚われのプリンセスってわけさ」
元王女は自分の肩を抱きしめた。外野からブーイング。凝視で一蹴。
「キングは困った。兵士どもじゃ歯が立たない。そこでお触れを出したのさ。姫を助けたものには望みの報酬を与えようって」
「典型的な英雄物語の導入だな」
「だろう? そしてアイツが名乗りを上げた」
女将の瞳が輝く。ヒーローの登場だ。
「幾多の試練を乗り越えて、こう、手下の魔物どもを次々に薙ぎ払ってさ」
腕をぶんぶん唸らせて、そして途中で止める。
「だが怪物を倒すには普通の武器じゃダメなんだ。古い祠に隠された知恵と勇気の魔剣! そいつを探し出し……アイツはついに怪物の前にたどり着いた」
クライマックスシーン! 女将がグッとこぶしを握り締めると、リルリラも同じく両手を握り締めた。
「そして見事怪物を打ち倒し……薄暗い洞窟の中から見上げたあの人の顔は、輝いて見えたねえ。額についた三日月の傷が、いかにも歴戦の勇士って感じだった」
照明がまたたくと、三日月のレリーフ飾りが影も色濃く浮かび上がる。ほー、とリルリラは興奮した息を漏らした。女将は少し照れたようにトーンダウンした。
「ま、洞窟を出て明るい場所で見たら思ったほど美形じゃあなかったけどさ。多分、あっち同じことを思っただろうね」
だが若い二人の情熱が冷めることはなかった。身分の違い、結ばれぬ恋。そんなシチュエーションがよりいっそう二人の胸を掻き立てる。
「どうせ国に戻ったって政略結婚に使われる未来しかないし……それで、思い切って二人で逃げちまったのさ」
若かったねえ、とため息一つ。
「それで、その人と一緒にお店を始めたの?」
「……まあね」
改めて店の名を確かめる。三日月亭。なるほど、私はニヤリと笑みを浮かべて店の奥に目をやった。
「なら、厨房の奥では英雄殿が包丁を握ってるわけだ」
茶化すように言った私にしかし、おかみは顔を曇らせ、苦い表情で目をそらした。
「……別れたよ、とっくにね」
リルリラが思わず口元に手をあてた。
「どうして?」
「だいたい想像つくだろ?」
フム、と私は頷いた。
仮にもお姫様暮らしをしていた娘と、腕一つを頼りに世界を旅する若者。
「価値観が違ったんだねえ」
彼女はしみじみとそう言った。
気づけば、アツアツの肉料理も湯気を出し終え、整えられた盛りつけも崩れ始めていた。
「アイツは本音じゃ、まだまだ自由でいたかったのさ。危険な香り、鋭い眼光。世界のすべてを敵に回しても堂々と胸を張って自信満々……。腰を落ち着けて客商売なんてガラじゃあなかった」
遠くを見つめる表情で、ため息一つ。
「……俺は酒場の主人で終わる男じゃない。世の中をひっくり返す男なんだ、なんてさ。いつまでも夢の中にいた。バカな男だよ」
カウンター席から、鼻をすする音が聞こえた。この酒場には、元ヒーローがたくさんいる。
「あたしはあたしで、当時は贅沢が身体に染みついててさ。そういう男を包んでやれるような女じゃなかった」
硬いベッドが嫌になったのさ、と彼女は呟いた。ひとときの熱情が過ぎ去れば、乾いた風が吹きすさぶ。
肉体をむしばむ疲労。汗。こびりつく生活の垢が華々しい英雄譚をも風化させ、色あせたレリーフには汚れと埃がじっとりとたまり始めた。
「商売も軌道に乗らず、何もかも上手くいかなくなってね……」
「知恵と勇気の魔剣は?」
「質流れ」
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赤貧、洗うがごとし。ハッピーエンドの先の話なんて、聞くんじゃなかったね、と苦笑い一つ浮かべて女将は肩をすくめた。
「結局、けんか別れ。あいつは家を飛び出して、あたしはほうぼうに借金してこの店をなんとか軌道に乗せた」
「国に戻ろうとは思わなかったのか?」
「滅んだよ。あっさりね」
私の質問におかみは首を振った。王女が出奔して数か月後のことだそうだ。近隣の敵対国に奇襲をかけられ、一夜にして壊滅。王族は皆殺し、家来集は散り散り。
「あの時、駆け落ちしてなかったら、あたしもその時に死んでただろうね」
彼女はテーブルの酒を一杯拝借して、のどに流し込んだ。
「そういう意味じゃ、アイツは二度、あたしを救ってくれたのさ」
元王女の目元がかすかに揺れたように見えた。顔に朱がさすのは、きっと酒のせいだろう。