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おかみはそこまで語ると、注文を受けて厨房に引っ込んでいった。欄間のレリーフ飾りには三日月の模様が踊っていた。
リルリラは私の耳元でそっと囁いた。
「今でも好きなのかな」
「……さあな」
私は酒を口にした。程よい苦みと、懐かしいような甘味が喉の奥に渦巻いた。
カウンター席の元大魔王候補たちも、どこか気の抜けた表情で酒をあおっていた。元ヒーロー、元ヒロイン。この世には星の数ほどそういう人種が存在する。
ホークマンがしみじみと呟いた。
「みんな、色々あるんだよなあ」
酒場全体が頷くように息をした。と、それを吹き飛ばすように勢いよく、厨房から女将が戻ってきた。
「さあ、湿っぽい話はナシだ! 身の上話を聞いてもらった礼に、今日は安くしとくよ!」
追加のツマミと酒が豪快な音をあげて各テーブルに配られると、歓声と共に酒宴が始まった。
我々はその恩恵に多少あずかったが、邪魔にならないよう早めに切り上げて店を出た。
魔界の夜空に月は無く、窓から漏れる酒場の灯りは宵闇の中でより一層明るく輝いてみえた。
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ふと、私は酒場を遠くから伺う男の影に気づいた。
彼は店に入ろうか迷っているように見えたが、窓の奥に見える女将の笑顔をしばらく見つめると、何か納得したような表情で去っていった。
すれ違いざま、ちらりと顔を見る。額に傷があるように見えた。
「……まさかな」
「どうしたの?」
リルリラが振り返る。私は首を振り、そのあとを追いかけた。
夜の宿場町。街道からは乗合馬車の最終便が到着し、人が流れこんでくる。それぞれの事情を抱えた旅人たちが。
彼らを出迎える者たちもまた声を上げ、その掛け合いが町を出入りする呼吸となる。呼吸はやがて血脈となって街道を駆け、この魔界に命を吹き込んでいくだろう。
我々の影もまた、その景色の中に溶け込んでいった。
(この項、了)