エルフが笑顔と共に盆を差し出した。
「おかわりいかが?」
「ありがとう」
茶と菓子を受け取り、イルーシャは微笑んだ。
茶の上に桜が舞い降りる。湯呑の上で泳ぐ桜を微笑ましく眺めて、彼女は呟いた。
「奇麗ね……」
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リルリラはイルーシャの隣に腰かけて一息つくと、巫女の顔をそっと覗き込んだ。私からは、影になってよく見えない。
そして彼女は桜の梢に目を移し、二つを見比べるようにして話し始めた。
「桜はね、春にしか咲かないんだよ」
イルーシャは顔を上げた。花びらが鼻先を泳いでいく。
「こんな満開の桜はひと月ももたなくて……すぐ散っちゃうの」
「そう……」
イルーシャは小さく呟くと、掌を天にかざした。散りゆく花びらがその掌と重なった。
「でも、人の記憶には残る……それは素敵なことよね」
悲しいこと、とはイルーシャは言わなかった。……言えなかった、のだろうか。
「でもね」
と、リルリラはピンと人差し指を上に向けた。
「この城のハネツキ博士が、それじゃ面白くないって言ってね。年中咲くように品種改良しちゃったんだ」
エルフが悪戯めいた笑顔を見せる。イルーシャは目を丸くして、ぱちくりと瞬きを繰り返した。
「だからいつでも見られるんだよ」
彼女は欄干から飛び降りるように着地すると、花景色の中を軽やかに歩いて見せた。
「桜は散るから美しいなんて言う人もいるけど、私は今の方が好きだな」
イルーシャも、招かれるように歩き出した。花の中へ。
「その博士……きっとすごい人なのね」
「うん。私、尊敬してる」
イルーシャはもう一度、空を見上げた。散らずの桜に手を伸ばす。懸命に。
だが茨の腕輪は刺々しく、彼女と大樹の間を抗いがたく遮る。
目もくらむような太陽が、少女の影をくっきりと浮き上がらせた。影は長く長く伸び、彼女自身よりも大きく広がった。
イルーシャはしばし瞳を閉じ、思索の海を泳いだ。荒波。深淵……。
勇者姫が彼女を呼ぶ声が聞こえる。彼女は私達に一礼すると、その傍らに駆けていった。
私とリルリラはその背中を見送りながら、顔を見合わせた。
リルリラはばつの悪そうな視線を私に送った。
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「余計なこと言っちゃったかな……」
「リルリラにしては珍しく、気にするんだな」
「だって……」
リルリラは俯いた。
私も腕を組んだ。
私もリルリラも、なんとなく気づいていた。イルーシャと菓子を囲む勇者姫の態度にどこか遠慮があることに。桜を見上げるイルーシャの顔にどこか悲壮な気配があることに。
聖地巡礼の旅の中で、何かがあったとしか思えない。
イルーシャが突然、アストルティアで花見をしたいなどと言い出したのも、それと無関係ではないだろう。
そしてもし、最悪の予感が当たっているとしたら……リルリラの言葉は、最も残酷な言葉の一つかもしれないのだ。
またひとひら、花びらが舞い降りた。
桜は散るのが定め。散ってこそ美しい。それは自然の摂理であり、エルトナの美観そのものだ。
その摂理を塗り替えたハネツキ博士の研究は賛否両論を呼んだ。
イルーシャは己の運命を塗り替えるだろうか。
「神のみぞ知る……とは、言いたくないな」
私は帽子をかぶりなおした。
「私たちにできることは?」
「……後方支援」
大きくため息。私は勇者でもなければ盟友でも、魔王でも、一騎当千の英雄豪傑でもない。ただのいち魔法戦士団員にすぎないのだ。
できることをやっている、つもりではあるが……。
花霞の向こうにイルーシャと、勇者姫の姿が見えた。盟友殿もいる。魔王ユシュカも一緒だ。
私は警護役として、橋の向こうで待機に徹するのみだった。
中庭を流れる水の音が、あちらとこちら、静かな境界線を引く。
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リルリラはただなんとなく、私の隣に腰かけていた。
(この項、了)