草虫の奏でる音が、風の間に間に流れてゆく。夜の空気が木々を揺らすと、吊られた照明が光と影をかきまぜた。
苔むした木造建築群が一瞬浮かび上がって消える。飾り気のない寺院風の質素な造りだが、鈍く輝く鬼飾りはこの里が積み上げてきた知恵と伝統の重みを奥ゆかしく物語っていた。
この里を、ツスクルの学び舎と呼ぶ。
一見するとエルトナ大陸の辺境に位置する静かな村に過ぎないが、この小さな学び舎の卒業生はエルトナの紳士録をたびたび賑わしている。領主、文官、学者……そして王自らも、この里で一定の学業を修めることが慣習となっていた。一種の聖地である。
その聖地に今、夜の帳が下り、降り注ぐ静寂は低く響く虫の声を殊更に際立てていた。
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私の名はミラージュ。ヴェリナードに仕える魔法戦士団の一員である。
そして今はまた、この地を守る防衛軍の一員でもある。
世界各地を襲う魔物の軍団がツスクルを攻撃対象にするようになってから、かなりの時が流れた。
王都カミハルムイから要請を受けた魔法戦士団の先導によりツスクルにも防衛設備が設営され、兵士団も常駐。戦いは日常の一部となってしまった。顔をしかめる学者たちも少なくない。
が、今はその是非を云々する時ではない。
問題は今……いや、まさに今夜。この里を敵が襲うかもしれないというその一点にあった。
他の時ならばよい。だが今夜だけは。
里に戦いを持ち込むわけにはいかない。
防衛軍の全隊員がそう考えていた。
その思いが、設置した防衛設備をあえて使わず、村の外で敵を待ち構える作戦を実行させたのだ。
私は背後に佇む木造家屋の、その最奥に位置する御殿に視線を走らせた。小さく輝く灯火が、目を伏せるように暗く揺れた。
ツスクルを統べる巫女、ヒメア。世界樹の守り人にして、全ての若木たちの母。
その別れの儀が今、しめやかに行われているはずである。
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話は多少前後する。
バルディスタの進軍に端を発した魔界とアストルティアの動乱は、ついに創世の女神と邪神の復活をめぐる神話的な闘争にまで発展していた。
私は立場上、全ての経緯を知らされているわけではないのだが……勇者と魔王の連盟による女神復活の儀式は、どうやら思惑通りには運ばなかったようだ。
儀式のため尽力していた魔瘴の巫女イルーシャがそれ以来、一向に姿を現さない理由は……あえて、考えないことにしている。
わかっているのは魔王ユシュカと勇者姫、そして新たな大魔王が邪神への次なる対抗策として、世界樹の力を求めた、ということである。
巫女ヒメアは既に一度、人としての生を終え、今は世界樹により生かされている状態だと聞く。
彼らの決断が何を意味するのか、想像に難くない。
巫女は一晩の猶予を求めた。別れを告げるための時間を。
それが、この夜だった。
冷たく透き通った風が、学問の里に流れていく。その風に戦火の香りを乗せたくないと思うのは、人情というものだろう。
士気は高い。
防衛軍の中にも、ツスクルで学んだ学者崩れは少なくない。エルフ族の僧侶や魔法使いは、特にそうだ。彼ら不肖の弟子にとって、これは最後の奉公といえた。
彼らは勇者でも魔王でも、一騎当千の英雄でもない。
女神を助け、邪神を封じるような力はとても無いが、せめて一晩の間、魔物を遠ざけるぐらいのことはしてみせよう。その思いが彼らの士気と集中力を極限まで高めていた。
敵影、確認の報。半刻と待たず、戦いが始まるだろう。
私は急造の物見やぐらに腰かけ、武器の点検を始めた。
背後から、場違いに明るい声が聞こえてきたのはその時だった。
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「ほい、差し入れでーす」
夜食を差し出しながら、ひょいとやぐらに上ってきたのは、柔らかな金髪、細く小柄な身体。大きな瞳。
私の旅の仲間、エルフの僧侶、リルリラだった。
私は目を丸くした。そして一瞬硬直し、すぐに怒声を放った。
「なぜこんなところにいる!」
私は巫女の御殿を指さした。
彼女もまたツスクルに学んだ一人である。巫女ヒメアは、恩師に当たる。
だが彼女は何も、防衛隊士としてここにやってきたわけではない。あくまで旅立つ恩師を見送るためにやってきたのだ。
当然、別れの儀に参加して最後の夜を共に過ごすべきではないか。
「こんなことをしてる場合じゃないだろう!」
櫓が揺れた。彼女は一瞬言葉に詰まって、目を伏せた。そして
「……仕事してる方が、楽でいいよ」
と、ポツリと呟いた。
私は何か言おうとして、彼女の柔らかな金髪を見下ろした。それが怯えるようにゆっくりと下を向いた時、何も言えなくなった。
私は上着を敷物代わりに隣に置いた。エルフはホッと救われたように息をついて私の傍に座り込んだ。