草虫がしんしんと夜を奏でる。
月明かりが、木々の間から零れ落ちる。
私は夜食をつまみ、武具の手入れをするふりをしつつ、どんな言葉をかけるべきか、考えていた。

白々しいほど澄み切った夜空に星が輝く。青々とした木々の枝が、その空をかき乱すかのように揺れた。星々は微動だにせず、泰然とそれを見下ろす。
だが明日、ひとつの星が落ちる。リルリラは空を見上げた。零れ落ちるものに抗うように。
思えばむごい話だ。彼女は既に一度、別れを済ませている。
巫女ヒメアが最初の生を終えた"花開きの聖祭"の少し前、別離の茶をかわし、それで終わったはずだったのだ。
それが思いがけない奇跡に助けられ、今しばしの生を得た。
そして今宵、二度目の別れだ。
『神も残酷なことをする』
リルリラの胸にエルドナ神の聖印が輝くのを見て、私は恨み言の一つも言いたい気分になった。
……が、そんな言葉を彼女は望むまい。胸の内に詰まった空気を吐き出すと、夜がそれを包み込んだ。私は再び彼女を見た。

正しい言葉ならいくつも浮かんだ。たとえ辛くとも傍にいてやるべきだ。もう時間がない。明日では遅い。師を想うならば……。
そんな台詞が何になる? 彼女自身が一番わかっていることだ。
私は100の言葉を思い浮かべて、何も言わず、彼女の頭に手を置いた。リルリラは身体を傾けて、私の掌に頭をこすりつけた。
エルフの背中が微かに震えた。そして、大きく息を吸い込んで膨らんだ。ゆっくりと吐き出し、また小さくなる。
深呼吸をするように、しばらくそれが続いた。
リルリラが小さな拳を握り締め、体に力を込めた。
……立ち上がれず、また拳を開く。
私は何も言わず、ただそれを見ていた。掌に少し、熱がこもった。
必要なのは言葉よりも時間と、その時間を共にする誰か。そういうこともあるはずだ。
だが、それでも……
急造のやぐらが風に揺れた。
言葉をかける勇気のなさが、そう思わせただけではないかという怖れは、確かにあったのだ。
やがて……
「………ン!」
何度目かの深呼吸の末、殊更にわざとらしく両手を振り上げて、彼女は立ち上がった。
「よし!」
「行くのか」
「うん」
「そうか」
こっちは任せろと、と私は拳を握り締めた。彼女も握りこぶしでそれに応え、やぐらを半ば飛び降りた。
『結局、何も言えなかったか』
私はやや唸った。友人として、私のやるべきことはこれでよかったのか?
夜の空気が胸の隙間に忍び込もうとした瞬間、
「ミラージュ」
と、彼女はこちらを振り返った。
「……ありがとう」
私が返事をするより早く、彼女は進路に向き直り、軽快に走り出していた。
遠く揺れる夜の灯火とエルフの後ろ姿が重なり、やがて木々の中に溶けていった。
私はその景色を、守らねばならない。
その直後。
示し合わせたように鳴子が鳴った。敵影接近!
私は弓矢を手に取り、宵闇の彼方へと狙いを定めた。
場違いなまでに色鮮やかなスライムタワーの影が、闇夜の中に次々と浮かび上がる。その能天気な姿に私は舌打ちした。
「空気の読めん連中め!」
ギリギリと弓を引き絞る。獰猛な矢じりが鋭利な光を放った。
……リルリラの分まで、八つ当たりをさせてもらう!
弦が弾ける。泣くような声を上げて、矢が夜空を切り裂いた。

***
あくる日。
巫女ヒメアは僅かな供を連れ、世界樹の丘へと旅立った。
リルリラはただ無言でこうべを垂れ、その背中を見送った。
全ての者が同じようにしていた。
朝日に濡れた世界樹の輝きが、空からこぼれ落ちるようだった。
魔王ユシュカと勇者の盟友がツスクルに到着したのは、それから数刻後のことである。
かくして、運命は動き始めた。