潮騒に冬の香りが混ざり始めた。空は透き通った青。少し身震い。
カモメたちはそんな私の頭上を素通りし、港に停泊する商船の帆先に止まる。
港町レンドアはレンダーシア大陸の北西、オーグリードとエルトナを結ぶ航路に浮かぶ小島である。面積こそ小さいが、その地理的な需要から多くの船が行きかう、アストルティア屈指の商業港である。
今日も船員たちが荷を運び、商人は声を張り上げる。
そんな彼らが時折空を見上げるのは、雲の彼方にまだ見ぬ世界を見ているからだ。……などと言えば、何をロマンチックな、と人は笑うだろう。
だがこれは夢でも空想でもない。彼らが、そして私が目にしているのは厳然たる事実である。
私の隣で、エルフのリルリラが空に手をかざした。
「今日はよく見えるねえ」
通りすがりの釣り人が、釣られたように空を仰ぐ。
立ち上る入道雲の向こう、虹のように煌めく光の彼方に間違いなくそれはあった。
浮遊都市。天空に浮かぶ城。
数か月前、突如として現れたこの景色は世界中の注目の的となった。雲に隠れてシルエットしか見えないそれは、人々の想像力を掻き立てるに十分な存在だった。
「何なんだろうねえ、あれ」
「誰か住んでるのかな」
ある者は伝説の天空城に違いないと声を張り上げ、またある者は蜃気楼のように地上のどこかにある景色が投影されているに過ぎないと主張する。
議論百出しようとも結局、答えは出ない。だからこそ余計に興味が惹かれるのだろう。今やアストルティア中の話題は天空都市一色だった。
私もまたその景色を見上げ、空想の翼を広げ……
そして私は不思議なほど急速に、ひとつの記憶が風化していくのを感じていた。
それは勇者と魔王、そしてその間に立つ一人の英雄の記憶。魔界と人界の全てを巻き込んだ壮絶な戦いの記憶だ。
あの日、世界が震えた。そして輝いた。
忘れ得ぬ戦い。鮮烈な、あまりに鮮烈な景色。
だが私はその光景を思い出そうとして……もはや抽象的な光と闇とが、激しくぶつかり合う姿しか思い出せないことに気づいた。
おそらくリルリラもそうだろう。隣の見物客も、弁当売りもそうだろう。
はっきりと覚えているのは、最初に頭に響いたあの言葉だけだ。
『聞け、アストルティアの子らよ』
アストルティアに生きる……いや、魔界やナドラガンドを含む全ての世界に生きる者たちが、その声を聴いたはずである。
そしてあの鮮烈なる戦いの、目撃者となった。
だが。
砂漠の砂が風に舞うように、ふわりと浮かび、そして消えていく。霧がかかったように漠然として、もうほとんど思い出せない。
記憶の底に小さな刻印を残して、あとはただ流れ去っていく。
「夢だった……はずは無いんだがなあ」
私は頭をかいた。
忘れたわけではない。ただ、思い出せない。
それでいいのかもしれないとも思う。
人知を超えた邪神との……いや、邪神をも束ねる異界の神との戦い。そんな記憶を受け止めきれる器の持ち主は、そう多くない。
小さなグラスに大海の水が入りきらないように、己の器に収まりきらない記憶は、こうして流れ、消えていく運命なのだろう。
何か大きな、この世を司る摂理のようなものが、そうさせているのではないか。
だが。いやだからこそ。
それが完全に風化してしまう前に、覚えている限りのことをここに書き留めておこうと思う。
何故なら、神に挑んだのは英雄たちだけではない。
私もリルリラも、その隣にいる弁当売りも。
さだめに抗う戦士たちの一人だったのだから。