今のエテーネの村は、若い村だ。
かつて栄えたエテーネの村はもう無い。突如として襲撃した魔族の軍勢により破壊しつくされたのだ。
生き残ったのはシンイと、もう二人の村人だけだったと聞く。彼らは数々の戦いを必死で生き抜き、歯を食いしばり、世界中から住民を集めて新たなエテーネの村を創り上げたのである。
シンイにとって魔族は友の、家族の、村の全ての仇であり、憎むべき敵だった。
勇者姫が魔族との共闘を選んだ時、彼は声を荒げることこそなかったが、その時彼が見せた表情は忘れようのないものだった。
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そんな彼が村を上げて魔王ユシュカを歓待し、しかも恨み言の一つも言わなかった。
私は知りたかったのだ。その意味を。
彼が何を思い、何を決断したのかを。
シンイは……しばらく沈黙を貫いた。私は兜の影の奥に、大魔王城で見たのと同じ暗く熱い炎を見た。
彼は一歩足をずらし、木陰の外に出た。陽光が肉体を刺し、影は色濃く地に伸びた。兜飾りが角のようにピンと立つ。無言の小鬼が地からこちらを見上げるかのようだった。
そして彼は、悲しげに笑った。
「単なる意地でしょう。ただ負けたくなかったのですよ、私は」
消えることのない業火を、彼は微笑で上書きした。鬼は瞳を閉じたまま、まぶたの裏を焼き続ける。
「臆病とお思いですか?」
彼は私に問いかけた。私は少しためらってから答えた。
「敬服いたします」
彼の決断は、全く英雄的なものではない。
だが考えてもみるがいい。世界に生きる者全てが英雄だったなら、それは悪夢だろう。
私は改めて、彼に一礼した。
「ミラージュさんにそう言ってもらえるのは、嬉しいことですね」
はにかむように彼は笑った。
私は首をかしげた。
彼と会うのは大魔王城に続いてこれが二度目である。長い付き合いとは言えない。
にもかかわらず……彼の口ぶりは、まるで昔から私を知っているかのようだった。
シンイの柔和な瞳がこちらを向き、そして陽光を跳ね返して輝いた。
私は一瞬、立ち眩みを起こしたようだった。
そして不意に、懐かしい男の気配を感じた。
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素顔を覆い隠す特徴的な旅人帽。身にまとうのは紫の外套と、"黒渦"のような謎めいた空気。
『お前は……』
私は彼の名を呼ぼうとして、声が出せなかった。
立ち眩みがおさまると、もう気配は無い。目の前に現れたと思った男の顔は、シンイのそれに変わっていた。
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「これからどうします?」
村の子供たちが足元を通っていった。私は首を振り、幻影を追い払った。
「女神救出、邪神との戦い……一介の魔法戦士にはもはや手の出せない世界です。が、勇者ならぬ身にもできることはありましょう。できることをやりますよ」
「ご立派です」
シンイは微笑んだ。
その時であった。
突然、目の前が白い光に包まれ、続いて声が響いたのだ。
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それは限りなく深く、透明で、しかし確かな質量を持って耳に響いた。
いや、耳ではない。脳に、意識そのものに働きかけるような声だった。
私は思わず天を仰いだ。追いかけっこをしていた子供たちも足を止めた。シンイは無意識に聖印を握り締めた。
そして声は、我々にこう呼びかけたのだ。
『聞け、アストルティアの子らよ』
それが女神ルティアナその人の声だと知ったのは、ずっと後のことである。
(続く)