風に乗った枯れ草が、頬を叩いたのを覚えている。
冬の太陽は変わることなく私を照らしていた。
丘から下り来るエテーネの風に身をさらしながら、私の意識だけはどこか別の場所に飛翔し、暗闇の中にあった。
隣にいるシンイ神官も同じだろう。偶然にもこのタイミングで竜族の神官エステラ嬢がエテーネ村を訪ねてきた。一瞬、幻覚かと疑う。虚と実がないまぜになり、まるで夢だ。
朧げな感覚の中でただ一つ、はっきりと響く声があった。
『聞け、アストルティアの子らよ』
女神の声に導かれ、我々の意識は更なる跳躍を果たす。そして虚空をも超えた虚無の中に、我々はその戦いを目撃した。

最初に見えたのは、闇の中を這う無数の手だった。
よこせ、よこせ、よこせ、よこせ……
飽くことなく欲し、求め、ただひたすらに手を伸ばし続ける。
何かをつかみ、喰らい、また次を求め、喰らう。
そうして生まれたイメージは、貪食を絵にかいたような肥え太った魔神の姿だった。
空を覆いつくす醜悪な肉塊。彼はなおも求め、喰らい、手を伸ばし続けた。餌食、生命、大地、活力……概念すらも喰らう。
だがその手を振り払い、戦う者たちの姿がある。
決然たる意志をその瞳に湛えた大魔王。あるいは勇者の盟友。燃える赤髪を振り乱しその背を追う魔王ユシュカの手に、魔剣アストロンが輝く。
颯爽たる勇者姫と、苛烈にして高潔なる魔王ヴァレリア、アスバルがその攻撃を背後から支える。
閃光が闇を切り裂き、光の糸が幾度となく炸裂した。
女神に導かれし者たちが暴食の化身に抗う……私は息をのんだ。まるで神話のワンシーンである。魔神はやや怯んだようだった。とどめとばかりに女神は光の矢を放つ。
神話の英雄譚ならばこれで大団円となるところだろう。
だが創世の女神が放つ光条は大きく開かれた穴に吸い込まれていく。黒く果てない落とし穴のようなそれは、魔神の口腔。また一つ、肉が膨れ上がる。
彼はニタリと笑った。空を覆う肉塊に穿たれた二つの裂け目が彼の双眸。
「よこせ。もっとだ。それをよこせ……」
赤く輝く貪欲な瞳は満ちることなく次を求め続ける。光、神、敵対者……全てが贄。
渇望の権化と化した肉塊は喰うほどに飢え、飢えるがままに喰らう。喰らうほどにやせ細り、それゆえにまた求める。
ついには餓鬼のようにやつれ果てた魔神は、飢えた瞳で世界を凝視した。
女神ルティアナの命の光が、雪の様に散っていくのが分かった。
そこまでが一瞬だった。我々は、過去の経緯を見せられていることに気づいた。
『アストルティアの子らよ。彼らを支えてほしい』
粉雪のような思惟の奔流がアストルティアを、魔界を、ナドラガンドを突き抜けた。

そして私は今、ここにいる。
隣にリルリラもいた。シンイもいる。エステラ嬢。向こうに見えるのは……久しぶりだ。同郷のヒューザじゃないか。隣に大きな猫を連れている。どういう縁だ?
ヒューザもこちらを見た。お前こそ、と彼が顎で示した先に猫魔道のニャルベルトが到着していた。苦笑。
勇者たちもまた笑みを浮かべた。細い糸が彼らと我々を繋いでいるのが分かった。出会いの数だけ糸が増え、物語の数だけ輝きが増す。
ならば光の網目の中心に位置するあの人物には、いったいどれだけの光が見えているのだろう。

勇者の盟友、解放者……数々の異名で呼ばれたその冒険者は静かな微笑みと確信の表情を浮かべて虚空を見上げた。
糸と糸が網目をつくり、織物となって壮大なタペストリを描き出す。
全ての人々が見守る中、その輝きに後押しされるように彼らは武器を手に取り、混沌の魔神へと立ち向かった。……渾身の力を込めて。