「それにしても、遅いね」
リルリラがキョロキョロとあたりを見回した。私もつられて首を振る。私がこのレンドアにやってきたのは、浮遊都市見物のためだけではない。
待ち合わせの時刻はとっくに過ぎていた。
「魔界とこっちで時差でもあったかな?」
首をかしげる。ちょうどその時だった。
人ごみから声がした。
「お待たせ!」
通行人の何人かが振り返った。
どこかで聞いた声……そう思ったのだろう。
私が振り向くより早く、リルリラは飛び出していた。
「イルーシャさん、お久しぶり!」
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花の咲くような笑顔があった。
「お一人で来られたのですか?」
私は若干の驚きと共に振り返る。
「こっちに来るのは初めてじゃないもの。でも、ちょっと迷っちゃって、ごめんなさい」
照れたように頭をかく。リルリラは買っておいたマジックサンドを差し出した。
「はい、イルーシャさん。お腹すいたでしょ」
「おい、太い骨が入ってないだろうな」
「大丈夫、私達のは星二つだから」
「……私だけ安物か?」
憮然とした表情に、イルーシャはクスクスと笑った。私は感慨深い思いにとらわれた。
最後に会ったのはカミハルムイの中庭だったか。
かつて彼女を霧のように包んでいた憂いのベールは、もう見当たらない。魔瘴の巫女。女神の器。そういう肩書から解放された、ただのイルーシャだ。
今日はそんな彼女からちょっとした依頼を受けてここへやってきた。
私は親指を港の方に向けて彼女に微笑んだ。
「いい場所を見繕っておきましたよ。あのあたりが一番よく見えるはずです」
停泊するグランドタイタス号の正面、
「本当……凄い景色ね」
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イルーシャは年相応に瞳を輝かせて空を見上げた。雲間に見える天空都市。彼女は早速スケッチブックを取り出した。
今、アストルティアで一番話題になっているものを描いてみたい。それが彼女の望みだった。
別にそれを魔界に広めて交流に役立てようとか、そういう理由ではない。少女の筆を縦横無尽に走らせているのは、ただの好奇心。
ペン先が画材に触れる。夢中になっているのが分かった。私にはそれが嬉しかった。
徐々に埋まっていくキャンバスを背伸びして覗き込みながらリルリラは笑った。
「そのうち凄い画家さんになるかもね」
「どうかな……身近に芸術家さんがいるから」
クスっと彼女は思い出し笑いをする。
私も彼女の絵を覗き込み、そして空を見上げた。
見上げれば天は遠い。首が痛くなるばかりだ。
それでも、謎と神秘は人を引き付ける。手を伸ばしたくなる。
ふと気が付くと、イルーシャが私の顔を見上げていた。
彼女は包み込むような笑顔を私に向け、細い顎を軽く傾けた。
「冒険の予感?」
「……どうでしょうね」
なんとなく気恥ずかしくて、私は顔をそらした。
風が雲をなびかせ、天空都市の姿がまた少しあらわになった。誰かが指さす。誰もが見上げる。
私も見上げた。
そしてその頃、新しい物語は既に始まっていたのである。
(この項、了)