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「ひょっとするとあなた方は、女神の言葉を聞いていなかったのでは?」
私は素朴な疑問を口にした。ピュトスは激昂した。
「何を言う!」
浮遊プランターの樹々が揺れる。天使の騒めき。聖天舎前の広場は、異様な熱気に包まれつつあった。
「我らは女神に仕える者! 常に女神の教えを胸に刻み、その言葉と共に歩んできたのだ!」
「いや、そうではなく……」
私はなだめすかすように手を振った。
「具体的な声としてです。少なくともアストルティアの民は全て……竜族や魔族に至るまで全員、聞いておりましたが……」
私は首をひねる。あくまで素朴に。
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「もしや天使にだけ、届いていなかったとか……?」
「な、何だと!?」
彼は絶句した。
「あ、あ、ありえん! 貴様そのような侮辱、よくも……!」
全身を震わせ、ついには手にした槍を振り上げようとした。誰かが悲鳴を上げる。
その時である。
「おい、どうしたお前たち。何を騒いでるんだ?」
聖天舎の方から飾らない、しかし威厳ある声が聞こえてきた。
天使達が一斉に振り返り……そして深く頭を垂れた。拍子遅れでピュトスも振り向き、慌てて敬礼する。
残る私は……その威容、というより異様な風貌に一瞬言葉を失っていた。
美しい金髪と純白の翼は天使そのもの。だが羽織った上着は奇妙なほど現代的な薄桃色のジャケット。へそ周りを大胆に露出したファッションもかなり天使離れしている。
そしてその目元には、表情を覆いつくす奇抜なミラーグラス。
「ミトラー様……!」
誰かが絞り出すようにその名を呼んだ。私は自分の目元に力がこもるのを抑えきれなかった。
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初めてお目にかかる人物。だが、名前だけは何度も目にしたことがある。あらゆる書類の署名欄に、最高責任者の名前として。
「どうした? 今の時期トラブルは困るぞ」
彼女……天使長ミトラーはざっくばらんな口調でピュトスに話しかけた。兵士は緊張もあらわに声を張り上げた。
「ハッ! こ、この者が……」
「ほう、地上人か」
天使長は私の顔を覗き込んだ。ミラーグラスは夕日を映して赤く輝く。
「宿屋協会の者です」
私はコンシェルジュ式に一礼し、フォーマルな微笑を浮かべた。少しは表情を隠せただろうか。
「この者が、何か?」
ピュトスがしどろもどろに説明を始める。折を見て私は許可証を提示する。彼女はちらりと一瞥し、頷いた。
「いいんじゃないか? 不審な点はなさそうだ」
「ハ……、し、しかし、聖天舎に無関係な者を近づけることは……」
「ただの配達だろう。すぐ帰るさ」
だろう? と私に微笑みかける。私は表情を崩さず再び一礼。
「儀式も近い。不要なトラブルは避けるようにな」
散れ、と言外に彼女は言い、天使たちは持ち場に戻っていった。ピュトスは私と目を合わせようとしなかったが、遮ることもしなかった。
天使長は、どうやら中央塔に用があるらしい。そのままピュトスの脇を通り過ぎた。
私はその背中を見送りながらしばし、もの思いにふけっていた。
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天使長ミトラー。フォーリオンの行政責任者。
いわば女王とでも言うべき存在だが、ヴェリナードの女王陛下とは随分違う。あの振る舞いはもっと現場寄りで、忠誠の対象というより仕事を取りまとめる代表役といった印象だ。
勇者ロト物語の異伝として語られる精霊ルビス伝説には、ミトラなる神の名が記されているが……恐らく無関係だろう。
結局、天使達は女神の声を聞いたのかどうか、なぜ女神消滅の原因が大魔王にあると思い込んでいるのか、その答えは曖昧なままとなってしまったが……天使も一枚岩ではない、ということだけは言えそうである。
英雄の人選について決定権を持つのが天使長だとすれば、少なくともそれに不満を持つ者が3割ほど存在する、ということだ。
為政者としてのミトラーは、果たしていかなる人物か……?
「そうだ、そこの地上人」
と、そのミトラーが不意に振り返った。
「そのファッションは地上の流行りか?」
グラス越しに、彼女の視線が私の背中に注がれているのが分かった。赤い翼は、まだ付けっぱなしだった。
「まあ……そんなところです」
私は曖昧に回答した。彼女はホウ、と顎に手を当てた。
「アストルティアの文化は興味深い。常に変わり続けるところが、特にな」
感慨深げに彼女は語った。天使の寿命は長い。変化し続ける地上の歴史を、彼女は見守り続けてきたのだろうか。
……フォーリオンに風は吹かない。
「今は天星郷全体がピリピリしてる。用事が済んだら早めに帰るようにな」
彼女はそれだけ言い残して中央塔へと消えていった。
私は深々と頭を下げ、ピュトスがまた何か喚きださない内に聖天舎へと向かうのだった。