その人物は、静かにドアを開いた。
扉の向こうに陽光を背負い、天空の風に髪をなびかせる。光に包まれた美貌は、神秘的ですらあった。
私は一瞬硬直し、反射的に女神マリーヌの神像を思い浮かべていた。だがそこにあるのは、物言わぬ石像ではない。
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始原の歌姫リナーシェ。記されし伝説すら歴史の彼方へと消えた、幻の女王。
ヴェリナードの祖となった人物が今、私の目の前に現れたのだ。
女王に謁見する時にも似た緊張感が私を包む。リルリラが私の脇腹をつついた。こそばゆくもない。
動けない私の視界の中で、"幻"は愛嬌たっぷりにニコリと笑った。
「天使様、こちらの準備は全て整いましたわ。これで試練の始まりですのね」
後ろ手にドアを閉めると光は散り、神秘は去った。残ったのは、花の咲くような笑顔を浮かべ、愛らしく首を傾けた一人の女性だった。しなを作るような仕草すらしてみせる。私はまたも度肝を抜かれた。
ヴェリナードの始祖とはいえ、現女王のディオーレ様とは、大分違ったご様子である。
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彼女は天使クリュトスといくつかのやりとりをしたところで私の存在に気づき、あら、と首を傾げた。
私はまだ、動けなかった。
「あなたは地上の方……それも、ウェナの……」
うるんだような大きな瞳が私をじっと見つめる。神殿の照明の下で見る始祖の顔立ちは第一印象よりいささか幼く、荘厳というよりは可憐であった。
男ならば誰であろうと、ドキリとするような瞳なのだ。
その瞳が私をそっと見上げ……そして、ふと気づいたように笑顔を浮かべなおし、にっこりと私に微笑みかけた。
「初めまして、わたくし、リナーシェと申しますわ」
私は慌てて胸に手をあて、最敬礼の姿勢を取った。
「天使殿のお手伝いをさせていただいております。ヴェリナードに仕える、ミラージュと申します」
「ヴェリナード……!」
歌姫の瞳が一瞬、大きく開かれた。しばしの間、沈黙があった。名乗りそびれたリルリラがキョロキョロと首を振った。
自ら興した国の名に、始祖は何を思うのだろうか?
私は頭を下げつつ、その瞳を覗き込みたいと思った。が……
沈黙を破ったのは、荒々しい怒声だった。
「地上人!ここで何をしている!」
声の方角に目をやると、目を怒らせた面長な男の姿があった。背には翼。クリュトスは彼をアルビデと呼んだ。
天使アルビデは歌姫の傍に立つと、露骨な嫌悪の視線を我々に投げつけた。
「英雄と地上人の過度の接触は禁じられているはずだ!」
「あら」
始原の歌姫はクスリと笑った。
「あの方は挨拶を下さっただけですわ」
「ならばもう用はあるまい。消え失せるがいい」
犬でも追い払うように彼は手を振り、返答を待たず再び歌姫に向き直った。
「英雄リナーシェ殿、前にも言ったが試練の公平を期すため、地上の情報は制限させて頂く!」
「承知しておりますわ、導きの天使様」
満面の笑顔を天使に返しながらも、始祖リナーシェは私に歩み寄った。アルビデがいきり立つより早く、歌姫は静かに、美しく唇を動かした。
「一つだけ……ヴェリナードは今、平和かしら?」
私は反射的に、魔法戦士として関わったいくつかの事件を思い出した。だが……
「……良き女王と世継ぎに恵まれ、水は清く、人々は健やかです」
些事はよい。今はただ、これだけを伝えれば良いはずだ。
始原の歌姫は小さく、
「そう……」
と、低く呟いた。
瞬間、私の背びれを寒気が襲った。
始祖の瞳は、底知れぬ深淵を覗き込むような深い、深い色をしていた。
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私は何か、返答を間違えたのだろうか?
疑問と焦燥が耳ヒレをチリチリと焦がす。
が、しかし。それは一瞬のことだった。
私がまばたきを終えた頃には、歌姫は愛らしい笑顔と共に両手を頬の隣で合わせ、
「それは何よりのことですわ」
とにこやかに微笑んでいたのだった。
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「英雄リナーシェ」
苦々しげにアルビデが咎める。
「こやつと……大魔王を英雄と崇める汚れた地上人とそれ以上言葉を交わすなら、貴女の評価にも傷がつきますぞ」
「まあ怖い」
始祖リナーシェは両手を胸の前で合わせて、茶目っ気たっぷりに微笑んで見せた。
「それじゃ、頑張って試練に励まねばなりませんね」
クリュトスに目くばせ。審判の天使は頷き、説明を開始した。