我々は始祖の記憶に触れながらその深奥へと進む。コルレーンの貧しく素朴な風景を歩いていたかと思えば、いつの間にやら王宮へ。あるいは荒野へ。
混沌とした記憶の渦を進むうち、景色だけでなく声もまた聞こえてきた。
「おお、さすがはリナーシェ様!」
我々の前に様々な光景が浮かび上がる。
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生まれながらに持つ不思議な歌声で、枯れた井戸を、病んだ土地を蘇らせ、救世主と称えられる若きリナーシェの姿。
最愛の妹、いまだ幼きアリア姫
そして隣国ジュレドとの戦争の歴史。
戦場に散った王。跡を継ぎ、女王となったリナーシェは、まだ少女の年頃だ。
家臣たちは喧々諤々の議論を続け、君主は人知れず苦悩する。
「前王を殺された家臣たちは頭に血が上り、戦力差を考えず玉砕覚悟の主戦論……対するリナーシェ様は、現実路線で話を進めたいようですな」
私は目の前で繰り広げられたやりとりをそうまとめた。王子は神妙に頷いた。
「兵士たちの気持ちもわかる。でも真に国を憂うなら、リナーシェ様のように冷静に事実を受け入れるべきだ」
だが武器を手にし、血気にはやる男達に理を説いて止まるものではない。といって力で押さえつけようにも、彼女は無力な娘に過ぎなかった。
そこで彼女が使ったのは……笑顔だった。
美しく穏やかな微笑。殺気立つ兵らを慈母の如く優しく包み込み、その一方で道を示す。不思議な歌声で大地を癒し、この恵みこそ武器に勝るものと説く。
「簡単な道ではありません。ましてわたくしは若輩の身。皆様のその忠義の心で、わたくしを支えてほしいのです」
微笑みの裏には常に煩悶があった。
父を殺した敵国への恨み。
一矢報いることすらできそうにない、絶望的な戦力差。
それを理解しようともせず、無責任に主戦論を唱える男達への怒り。
いっそ全てを忘れて敵陣に突撃し、華々しく討ち死にでもできたら、どんなに楽だったか。
だが彼女は自暴自棄になるわけにはいかなかった。
彼女には守るべき幼い妹、アリアがいる。玉砕して自己満足のままに死ぬわけにはいかないのだ。
だからこそ余計に……男どもの蛮勇を憎む。
そして自らの進むべき道と、自分自身の価値を思う。
「幸い、鏡に映るわたくしの容姿は美しい」
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鏡を見つめる彼女の瞳は悲しいほどに冷徹だった。事実だけをシンプルに認め、それ以外を思考の外に置く。
「私に剣を持った男は殺せない。けれど私が笑いかければ、剣を持った男は私の前にひざまずく。これが私の戦い」
たとえ魔女と呼ばれようとも……。
完璧な美貌で人を引き付け、完璧な微笑みで人心を絡めとり、完璧な理知をもって国を動かす。
誰一人、頼れる者はいない。何もかもを自分が操らねば、この国は滅びるだろう。
少女はたった一人で絶望に立ち向かったのだ。華やかな笑顔を浮かべながら。
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「けれどジュレドの王が色香に惑い、和平を結ぶとは思えない。他に交渉の手札など、貧しいこの国には存在しないというのに!」
妹の泣き声が響く。焦燥と絶望。彼女はそれでも拳を握り締め、前を向いた。表には穏やかな微笑を取り繕って。
オーディス王子は天を仰いだ。
「なんという女王だ……」
外交交渉が彼女の主戦場だった。自らのもう一つの武器、不思議な歌声を効果的に売り込み、国内だけでなく国外にも評判を広める。時には間者さえ使ったという。
ジュレド王国もまた、やせ衰えた土地に悩まされていた。コルレーンとの戦争も、豊かな土地を奪い合っての面が大きい。
やがて彼女は反対を振り切って自らジュレドを訪問し、その美貌と歌声を披露した。
この時、女王リナーシェは16歳。絶えず注がれる憎悪と敵意の視線は想像以上に恐ろしい……ドレスの下に震える脚を隠しながら、彼女は笑顔を振りまいた。
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人々はその美貌に惹かれ、その能力に驚き、そしてその微笑に酔った。
ジュレドの新王ヴィゴレーとの交際が始まったのは、そのしばらく後だった。政略結婚と正式な和平の成立、そして両国の合併が実現するのも時間の問題に思えた。
「自分の父を殺した国の王と結婚する……そういう決断をできる人なのか……」
アリア王女は大いに反対したという。父の仇をどうして愛することができるのか、と。そんな妹を女王リナーシェは優しい笑顔で諭すのだった。
「殺しあったのは父の世代のこと……私たちがそれを引きずってはいけないわ。それに、ヴィゴレー様だって立派な方よ」
オーディス王子は嘆息した。
「英雄と呼ばれるのもわかる。能力だけじゃない。本当に高潔な方だったんだ……」
私は王子の顔を盗み見た。
記憶の中の女王を見つめる青年の瞳は、憧憬と羨望に満ちていた。