
王子は想像以上に思いつめた様子だった。虚空にそびえる白亜の宮殿。その頂きに向かって独白するように言葉を絞り出す。
「生まれながらの身分ゆえの力……王子の身分に甘んじているならそれでもいい。でも王として国を背負うなら、自分自身の力が要る……王に相応しい力が。リナーシェ様のように」
私は言葉に詰まる。そんな青年にそっと近づいたのはセーリア様だった。
「ならば、オーディス王子。リナーシェ様の物語を……歴史の結末を、最後まで見届けましょう」
巫女姫の眼差しには、どこか憂いがあった。濡れるような瞳に、悲しみの光がある。
オーディス王子はその意図を問いただしたが、彼女はただ首を振るだけだった。答えは、すぐそこにあった。
白亜の宮殿、そのバルコニーに始祖リナーシェの記憶が映し出される。
婚姻の夜。全てが報われるべき祝福の日に、悲劇は訪れた。

血の匂い。裏切りの刃。
ジュレドのヴィゴレー王はヴェリナードの全権を手中に収めるため、妻となるべき女性をその手にかけたのだ。罪は弟のカルーモになすり付け、自らは悲劇の王として……。
オーディス王子は壁に拳を叩きつけた。
「なんという……卑劣な!」
心酔する始祖の非業の死を見せつけられ、彼の形相は歪みに歪んだ。
私とて気持ちは同じだ。
だが、
「殿下」
私は臣下として、あえて苦言を呈さねばならなかった。
「愛する男に裏切られ、健気な努力の全てを全てを踏みにじられた女。この悲劇を嘆き、憤るのは当然のことでしょう」
私もまた壁に拳をこすりつけ、しかし首を振る。
「ですが同盟者に裏切られた女王となれば、これは話が違うのです」
王子は目を見開き私を睨みつけた。
「まさか君は、裏切られた方が愚かだとでもいうつもりなのか!?」
「そうは申しません」
私は首を再び振る。
「しかし殿下はいずれ王となられるお方。何が裏切りを招いたのか、学ぶ必要はあるでしょう」
王子はまだ歯を食いしばったままだった。血に濡れた白亜の床を睨みつけながら荒い息を吐き出す。
「僕には……ヴィゴレーが卑劣な男だったとしか思えない。リナーシェ様は全てにおいて完璧だった!」
そして再び自嘲的に俯いた。
「……誰かに頼ってばかりの僕とは違ってね」
「……お言葉ですが、殿下」
私は強いて跪き、しかし視線を上げた。
「国王が、その国で最高の人材である必要はありません」
青年の影がぐらりと揺らいだ。若い瞳が混沌の渦を見上げる。
私はゆっくりと続けた。
「……王とはそういうものです。もちろん、臣下に王佐の才あってのことですが」
そして倒れ伏す始祖の幻影に目を移す。美しく、儚い。

「あの方は……完璧すぎたのかもしれません」
あらゆる重荷を自分一人で背負う。それは言い換えれば、彼女一人を始末すれば全てが覆る状況を作ってしまったということでもある。
重荷を分かち合える家臣の一人でもいたならば、あるいは……
「そうですね」
私の言葉に同調したのは、セーリア様だった。
「時代があの人に、完璧であることを求めたのでしょう。それは不幸なことでした」
巫女姫は悼むように瞳を閉じ、まだ虚空を見つめる青年の隣に静かに並んだ。
「王子。私の父……ラーディス王も、決して完璧な人ではありませんでした。多くの家臣や母上……のちの女王ヴェリーナが、公私にわたって細やかに支えていたのですよ」
オーディス王子は無言だった。私は跪いたまま口を開いた。
「僭越ながら、ディオーレ様でさえ、全知全能というわけには参りません。メルー公のお働きは殿下もご存じの通りかと」
「父上……」
青年は瞳を閉じ、胸中に渦巻くものを押し殺すようにゆっくりと息を吐いた。
風が流れ始めた。
周囲の景色は再び変わりつつある。始祖リナーシェの記憶は闇に閉ざされ、白亜の城も黒に染まる。嘆きの風。悲憤の渦。泣くような風の音は、やがて嵐となるだろう。
ユーライザと盟友殿が前進を促す。王子も我に返ると頷いた。
「すまない。僕のために余計な時間を使わせてしまった。先を急ごう」
英雄たちが嵐の中へと踏み出した。魔法戦士団もそれに続く。おそらくこの先に始祖リナーシェがいる。悲劇に沈み、悪神へと堕ちた女王が。
道中、オーディス王子が呟いた。
「しかしリナーシェ様を支えることのできる人なんて、いたんだろうか?」
「いました」
即座に頷いたのはセーリア様だ。その瞳には確信がある。
「私はそれを、あの方に伝えねばならないのです」
彼女の掌の上で、失われた歴史を記したという"潮騒の宝石箱"が静かに光を放っていた。