刺すような冷気が私の四肢を貫いた。紫紺の瘴気が障壁となって侵入者の前に立ちふさがる。
嫌悪。拒絶。そして怒り。ここまで到達した冒険者たちが、思わず躊躇するほどの妖気がその空間を支配していた。
ユーライザが前進を促す。
英雄の手は、裂くようにそれを掻き分けた。
暴かれた闇の中に、赤く輝く二つの球がある。ギロリ。双眸が英雄を睨みつける。
そして彼女はそこにいた。
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魔瘴の色に染まったドレスには、血で染めたような赤い模様がまだらに踊っていた。
柔らかく垂れ下がっていた耳ヒレも刺々しく逆立ち、そして赤い瞳にはあざけりの笑みが浮かんでした。
「リナーシェ様!」
オーディス王子が呼び掛けた。
「どうか正気にお戻りください。貴女はこのようなことをなさる方ではないはずです! 貴女は……」
「癒しの歌姫、理想の女王、完璧なる淑女、でしょう?」
始祖は嘲笑を浮かべたまま青年を見下ろした。
「あなたはわたくしの何を知っているのかしら」
ため息。肩をすくめる仕草が芝居がかって見えるのは、歌姫の本能か。
「必死で演じ続けて、得られたものはあなたのような男達の、誤解まみれの崇拝だけ」
嘲笑がやがてひきつり、泣き笑いに変わる。
「残ったのは……あの汚らしい男が作り上げた王国だけ!」
どす黒い瘴気が彼女のドレスを包み始めた。
「守れなかった! 国も……あの子も!」
渦巻く気流と共に、悪神の思念が我々の精神に直接叩きつけられる。
裏切りの王ヴィゴレーは、幼きアリア姫を女王リナーシェの身代わりとして娶り、歴史を築き上げた。ヴェリナード王国を……
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「それは違います!」
セーリア様が瘴気の風をかき分けて悪神の元へと駆け寄る。だが歌姫の狂乱は彼女の介入を許さなかった。
無数の剣が突如として虚空から現れ、巫女姫の胸元へと一直線に迫る。英雄殿でさえ、咄嗟には反応できない速度だった。
魔法戦士団が一斉に駆け寄るが、間に合わない。ユーライザが息をのむ。
そしてセーリア様は……微動だにしなかった。
乾いた金属音。
飛来する刃を叩き落としたのは、オーディス王子の剣だった。
「リナーシェ様」
彼は毅然と始祖を睨みつけ、荒い息を隠そうともせずに剣を構えた。
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「たとえ王国の祖である貴女であろうと、セーリアを……僕の家族を傷つけることは、王家の男として許しません!」
その姿はまだ粗削りながら、かつてラーディス王島の戦いにおいて、古代のカラクリからディオーレ様を守ったメルー公の雄姿を彷彿とさせるものだった。
セーリア様が安堵の笑みを浮かべる。
私も一瞬、頼もしさを覚えたのは確かだった。
だが。
「くっ……ふふ……うふふふふ……」
始祖の細い喉から、気のふれたような笑いが零れ落ちた。王子が怪訝な面持ちで視線を上げる。
「ヴェリナード王家の男は……家族を守る……?」
狂気の笑みが魔瘴を赤く染める。風は雷鳴を伴い、嵐となった。
英雄殿が頭を抱えるのが見えた。私も実を言えば、同じ気持ちだ。
言うまでもなく、オーディス王子には何の落ち度もない。彼は大切な女性を危機から守り、その意思を堂々と宣言しただけだ。
だが……この王子の"間の悪さ"は、天性のものだった。
敢えて俗な表現をさせてもらおう。
彼は地雷を踏んだのだ。それも、特大の。
「ヴィゴレーの! あの男の血を引く男が! よくもそんな戯言をぁぁぁ!!!」
無数の剣が空を舞う。矢の雨を降らすように、刃が降り注いだ。