遠くに波の音が聞こえる。夜空のように深い青に染まった海面は、今は我々の頭上。揺蕩う水の奥深く、海底より暗い記憶の底で、一つの歴史が紐解かれようとしていた。
始祖リナーシェは耳を澄ます。我々もまた聞き入っていた。
潮騒の宝石箱は、静かに語る。
始祖リナーシェの死後、紆余曲折あってヴィゴレーの野望は阻止されたこと。そしてそれを果たしたのは、彼女が常に守ろうとしていた、妹のアリア姫であったこと。
声とともに当時の光景が映し出される。私は思わず、アッと声を上げた。
そこにあったのは、美しい淑女として成長したアリア姫の姿だった。
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リナーシェ様の記憶を通して、私も何度かアリア姫の姿を見てきた。だがそれは常に、幼い少女の面影を残す姿だった。だから私はずっと、アリア姫を小さな子供だと思っていた。
それはつまり、リナーシェ様がアリア姫をどう見ていたのか、という意味でもある。
だが目の前に現れたアリア姫は、無力な子供などではなかった。
彼女は姉の死に不審を抱き、ヴィゴレーの野望を看破。罪を着せられたカルーモ王子派の兵士らと協力して真相を暴き、ついにはヴィゴレーを失脚せしめた。
その後もコルレーン、ジュレド両国のために精力的に活動し、一度は頓挫した両国の和解と新王国の設立を実現。カルーモ王子と結ばれ、ヴェリナードの初代王妃となったのである。
「あの子が……小さかったあの子が、そんなことを……」
始祖ははじめ呆然とし、そして自嘲的に微笑み、最後に諦観を込めてうなだれた。
「私は自分以外に、頼れるものなどいないと思っていた……自分が全てを守らねばならないと……。それは私の傲慢だったのですね……」
血の色をした瘴気が流れ落ち、青く透き通ったものが彼女の頬を伝う。
「本当はいつも誰かに助けてほしかった。辛くて、苦しくて、怖かった」
そして彼女は自分自身の内に潜む悪神を滅ぼすため、英雄殿に助けを求めた。おそらくは生まれて初めて、「助けて」と声に出して。
王子もまた、自ら膝をついた。
「僕からも頼む。彼女は僕と違って……誰にも頼ることのできない人だった」
その後のことは、もはや語るまでもないだろう。
英雄は光り輝く剣を掲げ……ウェナ諸島は穏やかな海を取り戻した。
*
かくしてヴェリナードの始祖は悪神の支配より抜け出し、始原の歌姫リナーシェが蘇った。
とはいえ、ユーライザによれば悪神化による負担は大きく、しばらくは魂魄となって休息をとる必要があるようだ。
だが始祖はその前に、我々との対話を望んだ。我々現代の地上人……とりわけ妹の血を引く王家の二人との。
「そう……言われてみれば貴女にはアリアの面影がある……」
リナーシェ様はセーリア様の顔をじっと見つめ……そして健康的な素足をチラリと見て、笑みをこぼした。
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「リナーシェ様のお身体は、大丈夫なのですか?」
セーリア様は気づかわしげに尋ねたが、始祖は首を振った。
「私は自分の愚かさの代償を払っただけ。それより、現代の皆様に迷惑をかけてしまいました」
始祖は王子と我々に向かって深々と頭を下げた。おかげで我々は地に額を擦り付けんばかりに跪かねばならなかった。
「それでも貴女は偉大でした」
王子は膝をついたまま顔を上げた。
「僕は貴女のようにはなれそうにない」
始祖はゆっくりと首を振った。
「……決して私のようには、ならないでください」
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始原の歌姫と現代の王子は、600年の時を超えて見つめあった。始祖の仮初の肉体が輝き始める。魂魄へと返る時間が来ているのだ。だから交わす言葉は、一言だけだった。
「平和と、未来を」
光と共に始祖の肉体が消え、玉のような魂魄がそこに残った。ユーライザは抱きしめるようにその光を受け止め、王子はその光景をまばゆく見つめていた。
*
こうして我々は悪神の心域を後にした。
いまだ収まらぬ嵐。オーディス号は類まれなる力を発揮し、僅かな人員を乗せて海を行く。
私はふと思う。この船は王子の目指した強さの象徴だったのかもしれない、と。
小さくとも力強く、あらゆる困難を跳ね除けて前進する。英雄と呼ばれるあの人物のように。
だが今、船の後方に座り、前方を見据えた王子の顔つきは少し変わったように見えた。
王とは器だ。大きくなければならない。自分自身は強くなくてもいい。頼ることのできる人材を、限りなく詰め込める器であればいい。
心域を離れるに従い、海は穏やかさを取り戻していく。
やがてウェナ全域に、この静かな波が広がっていくだろう。
さて、これにて一件落着、と言いたいところだが……
実はまだ終わらない。
始祖リナーシェにまつわる冒険は、もう少しだけ続くことになるのである。