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地の底に沈んだ連塔遺跡に、静かな風が吹いた。
罪科を問う言葉がその風に乗って、亡霊の朧な輪郭を揺さぶる。
何故殺した。何故罪を犯した、と。
亡者は口元を歪め、いびつな笑みを浮かべた。悪漢らしく。
「野心、では不足かね」
彼は尊大に両手を広げて見せた。
「あの女を殺し、全てを我が手に!」
「野心ならば、満たされていたはずでしょう」
私は即座に指摘した。
「ヴェリナード初代国王。長く続く戦乱を納め、ウェナに平和をもたらした偉大な王。たとえ何もしなくてもリナーシェ様の隣に立っているだけで、貴方はウェナの歴史上、最高の栄誉を手にすることができたはずです」
燭台で何かがパチリと弾け、墓標に刻まれた文字が浮かび上がる。色あせ、削られ、もはや意味をなさない文字が。
カビ臭い風が吹き抜けた。妻殺しの末路がこれだ。
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栄達を求めるなら、彼は何もリナーシェ様を殺す必要などなかったのだ。建国の最大の功労者はリナーシェ様だとしても、王は間違いなくヴィゴレー。
彼はウェナ全土を統一し、歴史に名を遺す。誰もが讃える英雄王になれるはずだったのだ。
その判断もできないほど愚かな男だったなら話も分かるが……目の前の男は、そこまで愚劣な人物にも見えなかった。
私は挑むように顔を上げた。
彼はゆっくりと瞳を閉じ、長い息を吐いた。
「現世を生きる者よ。最も愚かな話をしよう」
亡霊はゆっくりと話し始めた。
「私は」
炎が揺れる。影が揺らめく。
「あの女が怖かった」
亡霊は自嘲的な笑みを宙に浮かべた。青くくすんだ石壁にその苦い表情が重なった瞬間、私は彼を理解した。
いや、自分自身を理解した、というべきか。
唐突に、ある記憶が私の脳裏に蘇った。黄金色の枯れ葉が舞う遺跡街道。アーチをくぐり、一点の曇りもない笑顔を見せた歌姫……
私はかつて天星郷で、始祖リナーシェと対面した。その時私が彼女に対して抱いた感想は……
ヴィゴレーと全く同じだったのだ。
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彼女はまるで子供でもあやすかのように天使たちを手玉に取り、笑顔一つで思うままに操ってみせた。穏便に。平和裏に。
あの完璧さに、跪きたくないと思った。私は、リナーシェ様が怖かった。
「あの女は全てにおいて完璧だった。私よりあらゆる点で優れていたのだよ」
亡霊は語りだした。
600年前、歴史が動いた。始原の歌姫が動かした。目の前の男は、その生き証人だった。……いや、死に証人とでも言うべきか。
「全てがあの女の思い通りに動いていく。怖いくらいにな」
コルレーンもジュレドも、彼女の思うがままに転がされていった。一度はその美貌と英知に心を惹かれたヴィゴレーも、やがて気づくことになる。
「私如き小才の徒はしょせん、利用されるべきコマに過ぎぬ。それは誰の目にも明らかだった」
そこに対等な関係も、支えあう男女の姿もない。支配する者とされる者。部下の霊が騒ぎ立てた。あの女は魔女だった! と。
「だが……彼女は優しかった。あの声。あの笑顔……」
お飾りの王の隣に立つ、理想的淑女の完璧に慎ましい微笑み。
惨めであった。
リナーシェは自分を愛してなどいないし、劣った人物だと見下したうえで、労わるような微笑みを投かけてくる。自分が何をやろうとあの女の掌の上。そこから抜け出すことは一生できない。
「彼女は怪物だった。この世で最も美しい顔をしたモンスターだった」
愚者ならばそれに気づかず、怪物の掌の上で幸せな生涯を送っただろう。
凡夫ならば気づいてなお、甘んじて受け入れよう。
ヴィゴレーは才子である。聡明であり、果敢であり、自負もあった。だが始祖と対等に互せるほどには突出していなかった。それが悲劇の引き金となった。
「あの女に勝とうとした。一つぐらい、あの女に予想できないことをやってみせなければ、私が哀れすぎる。あの女が一度でも、心から驚く顔を見せたなら……私の勝ちだ」
亡霊は自虐的な笑みと共に言い放った。あまりにも身勝手な……しかし胃の腑の底からの言葉が、私の胸に突き刺さった。驚く顔を見てみたい……それもまた、私が初めてリナーシェ様と出会った時に抱いた感想と一致していた。
認めたくはないが……私のようなタイプの男は、この王の蛮性を否定できない性根をもって生まれてきたのかもしれなかった。
ゆえに私は、強いて表情をこわばらせ、声を荒げた。
「それで、最も愚かな方法を取った、と?」
亡霊は答えなかった。遠くで風が吹き、音叉が微かに振動を伝えた。