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「何故君がここにいる?」
「ここは宿屋ですから」
ナナロはコンシェルジュの証であるオレンジ色のバンダナに手を当てた。宿屋協会公認。
「宿屋協会にも配置転換はあるんですよ。ノウハウの属人化を防ぐため、定期的に人員の入れ替えを……」
「冗談はいい」
私は他の団員を遠ざけ、険しい顔でドワーフを睨みつけた。
私は天星郷で宿屋協会の協力者として活動していた時期がある。その頃の実質的な上司が、このナナロだ。
そういう人物が地上に降りて私の前に現れたのだから、ただの配置替えのはずはなかった。
彼女は真顔に戻ると一枚の紙きれを差し出した。
「単刀直入に申し上げます。天星郷にお越しいただきたいのです」
「……読ませてもらう」
私は依頼書を受け取った。
天星郷に異変あり。悪神アシュレイ、レオーネの襲撃に備え、守備戦力の補強を求む、云々……私は顔をしかめた。
「悪神の狙いはレンダーシアではないのか?」
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これまでの悪神はそれぞれの出身大陸で事件を引き起こしてきた。ならば初代勇者アシュレイと盟友レオーネの狙いはレンダーシアに違いない、と各国はその前提で有事に備えていたのだ。
「裏をかいてきたようですね。彼らの狙いは天星郷そのものです」
「戦務課の天使はどうした?」
「事情があって神都以外に人数を割く必要があり、戦力が分散されている状態なのです」
詳しい事情はのちほど、と彼女は言った。どうやら相当事態はひっ迫しているらしい。
「それで地上の戦力をアテにし始めた、と?」
「ルイーダの酒場を通じて冒険者を募っていますが、誰でも、というわけにはいきません。その点、元々天界の事情に通じているミラージュ様なら適任かと」
「猫の手も借りたいわけだ」
「猫島にも依頼を出しております」
冗談かどうか、ナナロは真顔で言った。
「だが、魔法戦士団の任務の方は……」
「折り合いをつけさせていただきました」
彼女は依頼書の最下段を指さす。女王陛下の署名だ。私は目を見張った。
「……偽造じゃないだろうな?」
「悪神が引き起こした騒動によって、天星郷の存在も首脳陣にとって"暗黙の了解"になりましたから。正式な依頼も出せるというわけです」
「正式、ね……」
私はため息をついた。手回しが良すぎるのは宿屋協会の欠点だ。否も応もないではないか。
しかも彼女は、わざわざ地上に降りてきた。
彼女は本来、紙切れ一つで私を呼び出せる。何しろ、女王陛下の名で発される命令なのだから。
にもかかわらず直接ここに赴いてきたのは「お前にそれだけの価値を認めているぞ」というポーズなのだ。
そういう如才のなさがいかにも宿屋協会らしく、また小憎らしかった。
「ともあれ、是非も無し、か」
私は最低限の引継ぎだけを行い、岳都ガタラを離れた。
天空から降り注ぐ風は身を切るほどに冷たく、その激しさは嵐を予感させるものだった。