書類をめくる。
吹けば飛ぶようなページの一枚一枚が、奇妙なほど重々しい。数多くの本棚が見下ろす中、勇者の言葉がもう一つの歴史を語り始めた。
部族間の事情から弟と引き離され、望む望まぬにかかわらずゼドラの勇者として育てられた幼少期。
最愛の弟を犠牲してまで手にした勝利。
そして、その果てに待っていた、人間同士の権力闘争。
レビュールとゼドラ。二つの部族は勇者の名のもとに統一されてなお、争い続けた。政治的主導権を奪い合い、宮中には謀略が渦巻く。目に見えぬ格差、部族間の差別。面従腹背の臣民たち……。
彼は事態を収拾せんと奔走し続けた。だが、勇者は無力だった。大魔王を打ち倒すことはできても、互いの利益と立場、信念とエゴのために戦う人同士の争いを収めるすべは知らなかった。暴動、反乱、そして粛清。
彼は大魔王を倒した剣を、同胞の血で染めた。黒く澱んだ血だまりの玉座に、彼は生涯座り続けた。慟哭と共に。
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「勇者に呪いあれ、か……」
大魔王ゴダの最期の言葉だ。呪いは成就したのかもしれなかった。
悪神と化したアシュレイは人類の負の歴史を語り、民衆の醜悪さを口を極めて罵ったという。平和になれば途端に堕落し、争い合う。一番結束していたのは大魔王に脅かされていた時だった、と。
「一面の真理ではある」
私は大きくため息をついた。
「だが、ヴェリナードのディオーレ様がこれを聞いたらどう思うかな」
私は女王陛下の名を出して周りの反応を窺った。エルフの剣士も深く俯いた。
「カミハルムイのニコロイ王も、お嘆きになるでしょう」
「ラグアス様は……どうでしょうかねえ。純粋なお方ですからなあ」
それぞれの王を思い、我々は互いに頷いた。
アシュレイの嘆きはもっともなことだ。私だって同情するし、身勝手な大衆、利己的な家臣らには怒りを覚える。
だが、彼は学士書生の類ではない。
清濁を併せ吞み、衆愚を捌ききってこその王。人類の醜さを嘆いている場合ではない。勇者アシュレイが国を治めて人心が乱れたならば、率直に言ってそれは彼の失政なのだ。
天使たちのメモにもこうある。勇者アシュレイは大魔王討伐の功績でゼドラ国の初代国王となったが、統治者としての資質には欠けていた、と。
辛口ではあるが、私も同感である。
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レビュールとゼドラの統一国家でありながら国名を"ゼドラ王国"などと号してしまった点など、特に政治感覚の欠如と呼ぶべきだろう。
彼が真に民族の融和を目指すならば、レビュール側を刺激しないよう、細心の注意が必要だったはずである。
レビュールの勇者レオーネを"盟友"の地位に格下げしてしまったこともそうだ。
無論、自身の権力基盤であるゼドラ氏族の意向を無視できなかったせいもあるだろうが……厳しい言い方をすれば、それは彼が自分自身で決断を下すことのできない、神輿の上の人形に過ぎなかったことの証左でもある。
「決定的なのは……これだな」
私は資料の中に刻まれたアシュレイの言葉を指さした。反乱軍との戦いの中で彼が叫んだという台詞である。
レビュールとの和解を目指す彼は、反乱軍の長に対してすら、腹を割って話し合おう、と呼び掛けた。
だが長がレオーネの"格下げ"について言及した時、彼が口にした言葉は、こうだ。
「勇者の片割れが大魔王の呪いに屈したなどという不名誉! そんなものを後世に残すわけにはいかない!」
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後年、彼はこう述懐している。そんな理屈はゼドラ側が権威を独占するために考え出した下劣な詭弁にすぎない、と。
そう思っていながら、彼は声高に先の台詞を叫んだのである。
その時の彼の心中を思うと、私の胸は錐で刺されたような痛みに襲われる。
赤心をもって語り合おうと願いながら、口をついて出てくる言葉は立場ゆえの詭弁ばかり。彼自身の本音は、ついに一言も放たれることは無かった。
「彼は既に、傀儡であったと言える、な……」
王とは器である。大魔王を討伐した勇者アシュレイは、誰もが認める大器であった。
だが彼は器の中に入れるものを誤った。そして器の中身が右往左往するたびに彼自身もグラグラと揺さぶられ、半ば操られるような形で権力の大ナタを振り下ろしてしまったのである。
悪神から解放されたアシュレイはこう語ったそうだ。人間の弱さ、醜さ、救いのなさ……その全てを奇麗に解決してくれる方法があるなら……そう思った時、悪神の誘惑に手を伸ばしてしまった、と。
「彼が勇者のままで終われていたらな……」
私は天を見上げ嘆息した。
畢竟、彼はどこまでも勇者であって、王にはなれなかったのだ。
資料をめくる。次なる人物の記録が現れる。
それはアシュレイという器の中央にどっしりと鎮座していた女性だった。
名を、ダフィアという。