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深翠の試練場に、戦乱の音が鳴り響いた。
悪神の力を得た魔物達は、怒涛の勢いで押し寄せる。天使の光がそれを牽制し、冒険者達が体を張って立ちふさがる。刃と爪とがぶつかりあい、毒の息と火炎呪文が拮抗する。すでに奇襲の利を失い、真っ向勝負である。戦士たちは奮闘した。私は最前線のやや後ろから援護に奔走しつつ、時に飛び出して戦線を支える壁に加わった。
一方、レオーネの分身は、戦いには一切加わらず、ただ戦場を眺めていた。天と人と魔とが、血と刃をもって交わる場所を。
そしてその足元から伸びた無数の根のような影が、魔物達一匹一匹に繋がっていた。
今、私の目の前で屍の騎士が剣を振りかざす。剣先から溢れる黒い霧のような波動が、剣閃と共に私に襲い掛かる。盾を押し出し、受け止める! 鈍い音が響く。
だがその盾を通り越して、暗く重い何かが私の体を侵食した。レオーネの怨念そのままに、屍が邪念を振りまく。憎悪、無念。天への、人への、そして己自身への。
私の脳裏に、レオーネの見た光景が浮かんだ。戦いの日々。報われぬ献身。猜疑の視線。そして裏切り。
「喝!」
私は声を張り上げ、それを拒んだ。レオーネが笑う。虚無の嘲笑。今や魔獣たちはレオーネの呪怨を振りまく手足となって樹海を蹂躙していた。虚無感、無力感、諦念と絶望……。少しでも気を抜けば、戦う意思を根元からこそぎ落とされてしまうだろう。
屍の騎士を振り払った私を、数匹の魔獣が取り囲んだ。邪念がホワイトパンサーの白い毛並を黒く染める。上空には常世アゲハが毒の鱗粉を散らし、漆黒の翼に血のような翼膜を広げたブラッドレディが、奇声と共に襲い掛かる。
木の幹を蹴って跳躍し、私はそれをかわす。そのまま刃に光の理力を秘め、振り下ろす。ギガブレイク!閃光が森を白く染めた。翼が焦げ落ちる。数は多いが、太刀打ちできない相手ではない。
だが……
降り注ぐ鱗粉から、あるいは魔獣の雄叫びが震わせた空気そのものから。私の肌に、そして内側に、浸透していくものがある。
毒……否、もっと恐ろしい何かだ。
気づけば、他の戦士達もその呪縛に胸をかきむしっていた。魔物達一匹一匹の顔に、レオーネの嘲笑が浮かぶ。そして彼は、狂気の呪念を吐き出した。
『思い知れ、人間ども!』
私は、暗い海の底に沈んでいく自分を感じていた。
闇の底から浮き上がる気泡の一つ一つに、かつての光景が重なる。
勇者として戦い、しかし報われることなく石と化した無念の最期。
時を経て蘇り、今度は盟友として、幼き勇者を助けた日々。
勇者の死。
突き刺さる人々の視線。暴走する悲嘆と義憤。謂れなき罪。
そして火刑台上から見た景色。
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正義の為に!と、彼らは叫んだ。
正義の為に、邪悪なる者を処罰せよ!
眼前に突き付けられた業火が、あらゆる景色を陽炎のように揺らめかせた。歪む、人々の顔。愛する勇者を失い、誰かを糾弾せずにはいられない人間達の顔。
彼らは今、その"誰か"を見つけ、眉を逆立てながら歓喜に震えているのだ。
『邪悪? それならまだマシだ』
レオーネは嗤う。
『これは邪悪ではない。救い難き弱さと愚かさ。人間の醜さ! そうだろう』
業火が私の体を焼く。磔にされた私の体は身じろぎすらできない。
……否。
力の全てを使いつくし、魔力を爆発させれば、全てを諸共に消し飛ばせるかもしれない。
だがそれに何の意味がある?
もういい。疲れた。もう終わりにしよう。
瞳を閉じたその瞬間、闇に白いノイズが混ざった。
何だ……?
私は重い瞼を開けた。
そこにあったのは、翼持つ者。赤き水晶の瞳を持つ者。
彼は微笑み、滔々と真実を告げた。本当の裏切り者は。本当の敵は。
天使が私に手を伸ばす。心地よい手触り。魂の開放。それは甘美なる誘惑……
……欺瞞!
私はカッと目を見開いた。
それは透明な光が私を包むのと同時だった。
「……を覚ましなさい!」
聞きなれた声。そして
「シャインステッキ!」
後頭部に鈍い痛み。
頭の中にガツン!と固い音がこだました。
「あっ」
僧侶のリルリラが、ステッキを振りきったままの姿勢で気まずい顔をした。
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私は後頭部を抑えて立ち上がった。森の木々が私を見下ろす。火刑台もなければ暴徒もいない。
シャインステッキ。あらゆる幻や呪いから犠牲者を解き放つ癒しの奥義だ。が!
「直に当てる技じゃないだろう、それは!」
「力みすぎ、頑張りすぎ、たまにあること」
リルリラは腕を×の字に組んで弁明した。全く……。私は文句を言いつつも笑いがこみあげてくるのを抑えきれなかった。
これくらい馬鹿馬鹿しい方が、闇に飲まれずに済むのかもしれない。レオーネの魔影を見上げながら、私は密かにそう思った。