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滔々と流れる水の音が街を取り巻く。潮の香と雑踏がまじりあい、流線形に整えられた白亜の都を流れていく。
ここは水上都市ヴェリナード。ウェナ諸島を束ねる女王の都である。
船着き場の手すりから外を眺めれば、うねる波の間を行き来する渡し舟が目に映る。
一人の男が、その光景を物珍し気に見つめていた。
あさぎ色の髪を後ろに流し、礼服に身を包んだその風体は一見して貴族か大商人の側仕えといった印象である。彼の瞳は水上を行く船よりもむしろ、船に滲み寄ろうとする小さな影に吸い付けられているようだった。
波を逆立てて、水滴が跳ねる。ヴェリナード領に生息するマリン種のスライムである。帽子のように貝殻を身に纏った姿が特徴だ。
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彼らなりに縄張り意識があるのだろう。渡し舟に追いすがろうと必死で水をかく。が、船乗りたちも慣れたものだ。聖水を振りまき、速やかに追い払う。マリンスライムは水上にばら撒かれた『異物』に慌てて身を翻し、岸へと逃げ帰る。海上の風物詩である。
余程興味をひかれたのか、男は手すりから身を乗り出してそれを目で追った。が、周囲への注意が散漫であった。
ちょうど到着した渡し舟から次々に乗客が上陸する。彼は危うくそれとぶつかるところだった。
さきほどのマリンスライムと同じ表情で彼は身を翻し、ひらけた場所に避難する……が、そこも路上だ。別の通行人とぶつかり、退避と衝突を何度か繰り返す。人ごみに面食らうその姿は、身なりとは裏腹に都会に出てきたばかりの若者のようである。
私は苦笑し、助け舟を出した。男はばつの悪い表情で私の誘導に従う。
「王宮まで、少し歩きます。通行人にお気をつけて、天使……いや」
私は首を振り、言い直した。
「……宿屋協会の、カンティス殿」
天使カンティスは、不機嫌そうに頷いた。
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*
私の名はミラージュ。ヴェリナードに仕える魔法戦士である。
縁あって、天使の都フォーリオンに拉致……もとい、招聘され、彼らの元で働いていたこともある。
そして今、私は人間族に扮した天使カンティスを連れて、ヴェリナード王宮へと向かっている。
彼に与えられた使命は、大げさに言えば地上各国と天星郷との友好条約を締結することだった。
天使長ミトラーは言った。侵略者ジア・クトと戦うためには、地上との連携が不可欠だと。
元来、天使は先祖代々の掟で、地上人に姿を見せることを禁じている。だがそのために地上との連携が取れず、常に後手後手に回っている感があった。
ことにオーグリード大陸西部、バドリー岩石地帯を急襲したジア・クトとの戦いは記憶に新しい。
この時はガートラント騎士団が勇者姫アンルシアの協力を得て調査に向かったが、地上のことだけに天界は一歩出遅れた。結果、各個撃破されるに等しい状況となり、多大な犠牲を生んだ。
遅れて参戦した導きの天使や現代の英雄、そして復活した歴代英雄達の活躍で辛うじて敵の侵攻は食い止められたが、いつまでも英雄頼みで戦うわけにはいかない。
古い掟を書き換える時が来た。ミトラーはそう言った。
さすがに一般市民にまで天使の存在を明かすわけにはいかないが、各国首脳陣との間に協力体制を築くだけでも大きな進歩である。
波風を立てぬよう、表向きは宿屋協会を間に挟みつつ、天星郷とアストルティアの同盟軍を結成する。
「時は来たれり、だ」
本来なら各国の王を集めて世界会議の形としたい所だが、天使の存在が伏せられている以上、王たちが大々的に動くよりは天使側の大使が各国に出向く方が都合がよい。
その第一歩が、わが祖国にしてアストルティア防衛軍の中心的存在、ヴェリナードとの交渉だった。
そしてそういう流れになった以上、ヴェリナード所属で天界にも縁のある私が案内役として選ばれることは、半ば必然であった。
大役を仰せつかり光栄というべきか、厄介な仕事を押し付けられたというか……ともかく、私に拒否権は無い。
こうして、カンティスと私の奇妙な旅が始まったのである。