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人ごみに流されそうになるのを辛うじて堪えつつ、天使は街を歩く。
いかにも不慣れなその足取りは、見ていて少々危なっかしく感じるほどだった。
一方その横顔は、気負いと緊張の入り混じった、複雑な色に染まっていた。己が双肩に圧し掛かるものの重みを感じているのだろう。
全ての天使がミトラーの改革に諸手を挙げて賛成したわけではない。
カンティス自身、一度は異論を唱えたという。
天使とは、神の見えざる手。人知れず地上を守り、管理する存在であること。それが彼らの務めであり、誇りでもあったのだ。
「その誇りを捨てることを……拒む天使も多いでしょう」
「誇りか」
ミトラーは首を振った。
「それは驕りだよ」
嘆息を交えた長の言葉に、カンティスは口をつぐむしかなかったという。
無論、カンティスとて事態を飲み込めぬほど愚かではない。しきたりやプライドに拘っている場合ではないことなど、百も承知だった。
彼の本音は別のところにあったのだ。
私が案内役として召集された時でさえ、彼はミトラーに直訴した。
「天使長……どうかこの役目は、他の者にお任せください」
「ダメだ」
天使長は、にべもなかった。カンティスは尚も食い下がる。
「フェディーラやクリュトスなら、私より上手くやれるでしょう。ユーライザでもいい」
「お前だ、カンティス。お前に頼みたい」
ミトラーはミラーグラスとその奥にある瞳をキラリと輝かせ、カンティスを凝視した。
天使の翼が緊張に強張る。
すると天使長は一転、芝居がかった猫なで声と共にカンティスの肩を叩いた。
「何しろ天星郷と地上の歴史的同盟だからなぁ。お前のような有能なヤツにしか頼めないんだよ」
カンティスの顔に影が落ちる。
ミトラーは笑顔を潜めると静かに、しかしはっきりと断言した。
「天使の中の天使。それがお前さ」
清潔に透き通った聖天舎の空気が、氷の鋭さをもって彼の首筋を刺した。
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「天使の代表として、地上に赴いてほしい。お前こそがそれにふさわしいと思っている」
カンティスは凍り付いた表情に、より一層のしわを寄せて床を睨んだ。
ミトラーはその様子をじっくりと観察する。
そして天使はしばしの沈黙ののちに、ついに重苦しい声を絞り出した。
「……私には、その資格がありません」
彼は跪き、懺悔するように頭を垂れた。
「私は罪付きです。不正を働き、英雄を侮辱しました」
天使の表情は、背後にいた私には見えなかった。震える翼は沈痛であった。
噂には聞いたことがあった。
カンティスの本来の役割は、英雄候補生の資質を見極める"審判の天使"である。現代の英雄こと"エックスさん"も彼のもとで試練を受けた。
だが当時の天星郷にはエックスさんを誹謗する風説が流れており、それを鵜呑みにした彼はわざとエックスさんを不合格にしようと試練に細工を施したというのだ。
事実であれば、決して許されない不正である。試練の意味自体を無に還す、最悪の裏切りだ。
だがミトラーはけろりとした表情で頷いた。
「ああ、知ってる。だからこそ、だよ」
「……懲罰人事という意味でしょうか?」
カンティスは恐る恐る顔を上げた。ミトラーは噴き出した。
「バカ」
心底おかしそうに、彼女は笑った。
「正式に謝罪したんだろ? とっくに」
「それは、まあ……」
「頑固者のカンティスが地上人に頭を下げるなんてさ! いやぁ、この目で見たかったよ。そのシーンを」
カンティスは気まずそうに表情をこわばらせたが、目は逸らさなかった。
天使長が唇の端を持ち上げながらその肩を叩く。
「そういう所さ、カンティス。だからお前に頼みたい」
ステンドグラスから差し込む光が後光のようにミトラーを包み、そしてカンティスを照射した。
高慢にして高潔。実直にして愚直。有能なエリートで、しかし完璧にはほど遠い。
確かにカンティスは"典型的な"天使だった。
ミトラー自身、アラモンドでの日々を経て地上への認識をあらためつつある。
そんな彼女にとって、カンティスこそ、最初に変わってほしい人材なのだろう。
静かに、水が流れ落ちる。天より降り注ぐ陽光は水流に屈折し、淡い光を投げかける。
ヴェリナード城はもう目の前だった。