白亜の宮殿に潮騒が響く。
会議の幕間、私は護衛役としてカンティスの隣に控え、ココナッツジュースを片手に雑談という名の愚痴に付き合っていた。
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「上手くいかんものだ」
「異なる組織、地域、国……まして初めて出会う種族同士となれば、摩擦は付きものでしょう」
「だからこそ、よく調べたつもりだったのだが……」
彼は鞄に押し込められたままの書類に目をやった。この分だと、八割以上は鞄に眠ったままになるだろう。
「そういえば」
と、彼は思い出したように言った。
「アストルティアにはルーラストーンという便利な石があると聞いたが……。それを使えば住民の避難も一瞬ではないのか?」
「……カンティス殿。それを持っているのは、探索や冒険を生業とする一部の地上人だけです」
「……星導課からの報告書はアテにならんな」
星導課の天使がこれを聞けば、口をとがらせて反論するだろう。我々は一つも間違った報告はしていない。所持者数まで詳細に記録せよという命令は無かった、と。
誰が嘘をついたわけでもなく、誰が不真面目だったわけでもない。文書だけで交わされた知識のやり取りなど、そんなものである。
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「それにしても、だ」
彼は談笑する役人たちを横目で見つめた。
「彼らも否定するならハッキリそう言ってくれればいいだろうに、一度肯定した後でやんわりと軌道修正しようとしてくるのが、なんと言うか……」
「……気を遣っているのですよ」
私は言葉を濁しつつ同情の視線を向けた。
百戦錬磨の官僚たちは、提案された内容を頭ごなしに否定したりはしない。満面の笑みで受け入れつつ、細部にわたり注文を付け、意味を書き換え、実質的に骨抜きにしてしまうのだ。
それでいて表向きはカンティスの提案した条項が成立するのだから、彼の面目は保たれる。……ことになる。
老練というか狡猾というか……官僚組織の操る巧みな交渉術は、魔道魔術の類に近い。
「精神が削り取られそうだ」
「……ご愁傷様です」
ある者は言う。宮廷は汎魔殿。住まう者は魑魅魍魎の仲間だと。
彼は天使とはいえど、退魔の術には長けていないようだった。
「本当に懲罰人事じゃないだろうな……」
物憂げに天使は呟く。
窓の外には、しびれくらげと無邪気に戯れるマリンスライムの姿があった。
*
会議は続く。
カンティスとてやり込められてばかりではない。仮にも聖天舎のナンバー2まで上り詰めた男である。頑固な面もあるが、決して頑迷ではない。手を変え品を変え、交渉を続ける。
なんといってもジア・クトに対してはフォーリオン側の方が情報も多いし、歴代英雄という戦力も備えている。
アストルティアでの具体的な活動内容は各国に委ねるとして、ジア対策の基本方針はフォーリオンが主導する方が動きやすいことは明らかだった。
ヴェリナード側もそれは百の承知の上である。ただ、それを皮切りに余計な干渉まで仕掛けてくる可能性を懸念してカンティスの動きを牽制していたのだ。
双方は計画を修正しながら粘り強く交渉を続け、一定の同意を得るところまでこぎつけた。
最後に女王陛下が立ち上がり、正式に調印する。疲れ切った顔の天使と、凛とした顔を崩さぬ女王の間に儀礼的なやり取りが交わされ、晴れて同盟は成立した。
ヴェリナード城には連絡員として、宿屋協会からの大使……という名目の、カンティスの部下が常駐することとなった。景色がまた少し変わる。
議席から慎ましくも確かな拍手が響いた。
この日の会合は反ジア・クト同盟の、そして天と地の距離を埋める事業の、ささやかながら大きな一歩となったに違いない。
……後はこれを国の数だけ繰り返せばよいのだ。
「そうか、これをあと7回……」
カンティスの横顔は、この一日で大分やつれたように見えた。
なお、私は陛下の裁定により、ヴェリナードとフォーリオンの友好の証として引き続き同行することとなった。私が隣に立ってヴェリナードの紋章を掲げることで、ヴェリナードの同盟者としてのカンティスの身分を保証できるわけだ。
つまり私もあと7回、この苦労に付き合うこととなる。
「いや、レンダーシア内海に突如現れたという謎の王国を含めれば8回か……」
「……それは後で考えさせてくれ」
カンティスは疲れ果てた瞳を窓の外に向けた。
夜の海。マリンスライムの姿は、もう見えなかった。