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日が沈む。
医務室のベッドの上、落日を窓の外に眺めながら、私は静かに息を吐いた。
リルリラが私の腕に巻かれた包帯を取り換える。あの決戦から、既にひと月近くが経過していた。
英雄達とジア・クトの最終決戦。その勝敗は語るまでも無いだろう。今、私がこうして生きていることが何よりの証拠だ。
そして今、神都は祭りが終わった後の虚脱感にも似た、寂寞とした空気に包まれていた。
頭上に赤い月は無く、恐るべき侵略者たちの影もこの世から消えた。集められた冒険者の多くは地上へと戻り、宿屋協会の面々も徐々に数を減らしつつある。
そして。
英雄達も、もういない。
夕映えが夜風を呼ぶ。寂しい風だった。
天使兵のハルルートが見舞いがてらに近況を教えてくれた。
「海に落ちた魔眼の月の欠片だけど……やっぱり各地で大津波が起きたらしいよ。幸い各国の動きが早くて、被害は最小限だったらしいけどね」
「そうか……カンティスが結んだ対ジア同盟は、無駄じゃなかったということだな」
私は書類を読みながら頷いた。
ジア・ゲノスは最後の悪あがきに、崩壊した魔眼の月を弾頭に見立ててアストルティアに直撃させようとした。命がけでその軌道を逸らし、辛うじて海上へ落下させたのは賢哲の盾ドルタムの手柄である。
そのドルタムも、もういない。
彼だけではない。ラダ・ガートも。そしてリナーシェ様も。
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まるで出番を終えた役者が速やかに舞台を降りるかのように、あの決戦で、あるいはその後に起きた事件で残った力を使い切り、次々にこの世界を去っていった。
残るフォステイルと"エックスさん"も人知れず神都を離れ、今のフォーリオンは静かなものだ。戦勝を祝して開かれた宴も、どこか侘しい。
天使の口元から溜息が漏れた。
「結局……私たちは全部、彼らに背負わせてしまったのかもね」
「……」
私は身をおこし、まだ痛む腕をあえて握った。この痛みだけが、罪の意識を和らげてくれる。リルリラの柔らかな掌がそれに触れた。ぬくもりが傷を癒す。
あの時、光の壁越しにみたリナーシェ様の瞳がまだこの目に焼き付いていた。あの瞬間、ほんのわずかな時間だけだったかもしれないが、私とリナーシェ様は対等の同志であり、仲間だった。
その仲間に、私は何をしてやれただろうか。
「……やれるだけのことはやった。そう思いたいな」
カンティスも、一時は仕事が手につかないほど落ち込んでいた。宴の席の隅で、彼は私に零したものだ。
「我々は天寿を全うした英雄達を安らかな眠りから呼び覚まし、ジアとの決戦に利用し、そして悉く使い尽くした。天使というのは、とんだ悪党かもな」
そんな彼を慰めたのは、リナーシェ様が残した手紙だった。正確には"エックスさん"宛ての手紙の中に、カンティスを気遣う言葉を残したのだ。そうすれば確実に彼の耳に届くとわかっていながら、決して直接は伝えない。そんなところがいかにも彼女らしかった。
カンティスは泣き顔にも似た笑顔で天を仰いだ。
「女狐め」
悪戯めいた瞳が目に浮かぶようだった。雲がその輪郭を空に残したまま、糸を引いて消えていくように、始原の歌姫は去っていった。
「少し羨ましい気もするな……」
私は空を見つめた。
鐘が鳴る。天使兵は時計に目をやった。多忙なのだ。
私も本来なら、とっくにヴェリナードに戻っているところなのだが……
「しばらくは絶対安静です!」
リルリラが両腕でバツ印を作った。私の傷はあらかた塞がっていたが、ジア・ロック爆発阻止の際に負った腕の負傷だけ、治りが遅かった。飛び散ったジア念晶が腕に突き刺さったのが良くなかったらしい。未知の物質だけに検査にも治療にも時間がかかる。おかげで未だに神都に足止めを喰らっているというわけだ。
「なら、しばらくここで相談に乗ってくれると助かるよ。地上のことは地上人に聞くのが一番いいからね」
ハルルートはそう言った。
彼女の語る所によれば、聖天舎では今後の地上との関わり方について意見が分かれているそうだ。ジア・クトが滅んだ今、再び天使は地上との関わりを断つべきか、それともより関係を深めるべきか。あくまで天と地は別にあるべしという保守派もいれば、首脳陣だけではなく一般層にも天使の存在を公開すべし、との急進派も存在する。
フーン、とリルリラは首を傾けた。
「だったらフェディーラ様に言われてたアレ、ちょうどいいかも……」
「何だ?」
私が目を向けると、エルフはウインクを返した。
「フェディーラ様は皆のためにアレコレしてるのです!」
「要領を得ないんだが……」
リルリラは満面の笑みを浮かべていた。
そのアレコレに、もちろん私も付き合うことになる。