ゼニアスの夕暮れ。
海面はオーロラとジアの輝きを跳ね返し、青紫から黄緑色へと鮮やかなグラデーションを形成する。その美しくも妖しい波模様は、ここが未踏の地、我々の常識が通用しない"果ての大地"であることを改めて警告しているようだった。
「野宿の用意はこっちでやっておきますから、ミラージュさんたちは釣りでも楽しんでてください」
というドワーフ達のお言葉に甘え、我々は水質調査を兼ねてこの海に釣り糸を垂らしていた。
「この海、魚とか居るのかニャー」
ニャルベルトは岩肌に腰を下ろして首をかしげた。
猫が疑問に思うのも無理はない。
縞模様の海に白波が静かにさざめく。その合間を縫って、氷河と化した結晶が無数に流れていくのが見えた。
ジア結晶の流れる海。船も灯台の光も見えない海に、冷たい塊だけが漂う。寒々とした光景に背びれは震え、肌まで凍り付くようだった。
しかし、生物の……とりわけ、海にすむそれの生命力というのは凄まじい。このような環境下でも数種類の魚類が生息しているのを確認できた。大型の魚類が多いのは、強靭な肉体が無ければ生きていけない過酷な環境ゆえだろうか。
「案外、釣れるんだな……」
我々はサメを釣るなどして遥かな海原に思いを馳せた。
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さて、それはいいのだが……。
ここで我々は、とある危機に直面していた。それは非常に些細な、しかし少々……いや、かなり厄介な……。
「こ、こういう海で撮れた魚は、流石に食えんのだろうな」
私は猫から視線を離し、もう一人に向けてぎこちない笑顔を浮かべた。
エルフのリルリラは、にっこりと笑って私に答えた。
「ソウデスネー」
エルフは不自然な笑みを顔面に張り付けたまま、そっぽを向いた。
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私は猫と額をつき合わせる。
「あれは笑って……ないよな?」
「見ればわかるニャ! どう考えても怒ってるニャー!」
リルリラの背中が微妙に震えていた。
きっかけは些細なことだった。調査の中で私が不注意から彼女の服を汚してしまったのだ。
冒険や探索の中で服が汚れるのはいつものことだ。腹は立つだろうが、当然のことと割り切っている。冒険者とはそういうものだ。
……が、この時の私は少々それに甘えすぎていたらしい。調査に夢中になっていたとも言う。リルリラの抗議を生返事でかわし、探索を続行した。
そんなことが何度か続き、彼女の天候は徐々に悪化していった。そしてつい先ほど、マンタを釣り上げた際の水しぶきが彼女を直撃したのである。
さすがに悪いと思ったのだが、もはやエルフの表情は不自然な笑顔で固まったまま動かなかった。
猫の杖が私の背びれを叩く。
「さっさと謝るのニャ! こういうのが晩ごはんの味に響くのニャー!」
「いや、謝罪はさっき……」
「もういっぺんニャ!」
杖が連打に変わる。エルフの羽が神経質に揺れ、巻き起こされた微風がはごろもを羽ばたかせた。
思えば、迂闊だった。
リルリラはゼニアス探索に向けて、衣装を新調していたのだ。
彼女好みの妖精モチーフ、ゼニアスの女神にちなんだ上衣には鮮やかな飾り布が舞い、大きく広がったスカートはユルリとしたももんじゃモデル。どちらも世界宿屋協会から取り寄せた限定品だ。振り返ってみれば、たなびく飾り布をことあるごとにアピールしていたような気もする。
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「あー、その、だなぁ」
私はコホンと咳払いして彼女の背中に声をかけた。
「汚してしまってすまなかった。高かっただろうに……」
「……!!」
エルフの細い肩がピクリと怒張した。途端にニャルベルトの杖が唸る。大きく飛び上がって私の頭を強かに打った。
「下手糞ニャ! その言い方だと"安ければ謝らニャくていいのか!”とかそういうメンドくさいことにニャるニャー!」
「猫ちゃ~ん」
リルリラは笑顔のまま振り返った。笑顔のままで。
「今夜のごはんが楽しみだね~」
スタスタと通り過ぎていく。どうも、面倒なことになったらしい。
「お、おいリラ。機嫌を直せ……」
「直しました~~」
ツンとした背中を私は所在なく追いかける。情けないことにこういう場合、冴えたやり方などありはしないのだ。しばらく、悪天候の散歩に付き合うことになる。
……そんな気まずい空気の中、あてどもなく歩く彼女が一片の石碑を発見したのは、全くの偶然だった。
角錐の形にそそり立つオベリスクは重厚な縁取りと円形の台座に支えられ、中央に刻まれた古代文字は緑色の輝きを放っていた。
「……何これ?」
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首を傾げたエルフが碑文の正面に立った瞬間、その光が突如として石碑から溢だした。
「えっ!」
「リラ!?」
光がエルフを包み、閃光が岩山を照らす。
それが収まった時、彼女の姿は忽然と消え失せていた。