「ラナルータ」
固い声で口にした呪文は、何も起こさず宙に消え去った。自分に自信が持てないを自分自身を表すかのように、ひっそりと虚空の彼方へ消えていった。
ヒメア様が亡くなった。それを知ったのは、彼女が身罷られてから時が経った後だった。申し訳なく思った。彼女は己の使命をしっかりと果たし天に還ったというのに、僕は彼女から承った使命を何も成し遂げられていない。……そして、きっとキミも世界を救うという大きな使命を全うしたのだろう。
古代呪文のひとつであるシャナクの習得が寸前のところで頓挫していた僕は、新たな古代呪文であるラナルータの復活に取り組んでいた。昼夜を逆転する呪文。神業としか言えない凄まじい呪文だ。当然ながら、こちらも芳しい成果を挙げられているとは言い難い状況で四苦八苦する日々。八方塞がりでどうしたものかと頭を悩ませていた僕は、気分転換も兼ねて何か新しい発見があればと久しぶりにツスクルの村へ里帰りに来た。
いつ来ても変わらない。周囲を崖に囲まれ、森の中に住んでいると言っても過言ではないほど自然豊な村。建っている家も全てエルトナ式の古風な木造建築で、静かで心が落ち着く僕の故郷だ。今はすっかり陽が落ちて、周囲には人影もほとんど見当たらなかった。記憶にある景色より更に静寂さを感じるのは、ヒメア様が亡くなった影響があるのかもしれない。それも無理はないだろう。この村に住む誰もが彼女を心底慕っていたのだから。僕だって例外じゃない。きっとキミもそうだろう?
「……アサナギ?」
独り薄暗い村の中をあてもなく歩いていた僕の目に飛び込んできたのは、他でもないキミだった。村の入り口にある鳥居の前で一礼し、月明かりに照らされながら鳥居をくぐるキミの姿はどこか神秘的で息を呑んだ。向こうも僕に気が付いたようで、どうしているのと言わんばかりにきょとんとした様子で声を掛けてくる。
「やあ、久しぶりだね。ちょうど僕も帰省していたんだよ」
「そうなんだ。……ここ、いいよね」
「……ああ。本当に、良いところさ」
そこから他愛のない話をした。キミに復活を手伝ってもらった古代呪文シャナクの習得がまだ出来ていないこと。キミが過去へ飛んだり、竜族の世界や魔界へ行ったりしたこと。学びの庭での日々。そして、ヒメア様が亡くなったこと。
「……ねえアサナギ。もし私のせいでヒメア様が死んでしまったとしたら、私のことを責める?」
「……少なくとも、僕にはキミを責める資格はないよ」
「そっか」
ふと自虐的に問いかけてきたキミを慰めるために出た言葉ではなかった。嘘偽りない本心だった。キミの代わりに古代呪文を復活させる任をヒメア様から受けたのに、ほとんど成果を出せていない。そんな僕が、世界を救ったキミに言えることが果たしてあるだろうか。あるわけがない。……随分と差がついてしまったと思った。
「私ね、後悔してるんだ。もっと私に力があれば、ヒメア様が犠牲にならずに済んだんじゃないかって」
「ヒメア様だけじゃない。もっと私が上手くやれていたら……そう思うことがたくさんあるの」
「ねえアサナギ。私って今ものうのうと生きていていいのかな」
キミの懺悔する言葉の数々に、僕は何も言えなくて。まるで、キミが舞台の上で独白しているようだった。僕はただの観客で、見ていることしか出来やしない。でも、ひとつだけわかった。どこか遠くへ行ってしまったと、僕とはもう次元の違う存在だと思っていたキミは、年相応に苦悩して思い詰める僕と何も変わらない一人のエルフだってこと。
「ラナルータ」
柔らかい声で口にした呪文は、何も起こさず宙に消え去った。悲壮に満ちたキミと僕を包み込みように、ひっそりと虚空の彼方へ消えていった。
「……何それ」
「古代呪文だよ。どうやらまた失敗してしまったらしい」
「……それってどんな呪文なの?」
「昼夜を逆転させる呪文さ。この呪文を習得出来た暁には、毎日昼寝し放題だね」
「ふふ……そんなことに使う人いないでしょ」
ああ、今の僕にはそんな神業を起こせるわけがなかった。ただ、目の前にいる一人の女の子の表情を逆転させることは出来た。なんて柄にもないことを思ってしまうのは、僕が少しだけ成長したからなのかもしれない。