なんか他人からお気持ち表明をたくさん受けた。まあ例の日誌が影響してるのだろうが、私としては、自分で言ってるようにそもそも些事。受け入れているという次元ではなく、自分自身のアイデンティティや強みだとしか思っていない。仮にもう一度人生を好きにやり直せるとしたら、迷わずまた若くして余命宣告される人生を選ぶ。それくらいこの人生を心から気に入っていて、特に不幸だとか受難だとかネガティブなことは何も考えていない。はっきり言わせてもらえば、程度の低い理解や思考で、私のことを語るなよとしか言いようがない。どうでも良すぎる。
そして、こういう話をもっと聞きたいとかいう珍妙な人間もそこそこいた。ソシャゲ周回で疲れてるので、気分転換にどうでもいいことでも語ってあげます。かるみんさん素が出てますよ、と本性バレバレなどうでもいいシリーズが今宵も開演。文体や題材を全く飾らないせいで、普段頑張って築いてるキャラクター像が崩壊中。
人の価値は、どうやって決まると思いますか?結果に対する社会からの評価?他人との相対的評価による差分?親しい人間からの評価?まあ色々と指標はあると思いますし、人によって何を重視しているかも違うと思いますが。私としては、自分の価値は自分で決めろ、としか思っていませんね。理由は色々ありますが、結論は変わらないです。
まず、自分で自分は価値のある人間だと思い込むことが、人生において基本的にやり得だからです。
出来ると自分を信じてる人が成功するだとか、結果を掴めるだとかを聞いたことないですか?こういうのは根拠のないスピリチュアルな話だと思いがちですが、実際に科学的な根拠が出ていることです。人間にとって、自己受容や自己肯定感の高さは、成功や幸せと密接しています。
例えば、何か新しい物事に挑戦しようと思える人と、そうでない人がいますね。当然成功できる人間は、挑戦出来る人間以外にはありえません。挑戦しない人は、今より評価を落とさないことはあっても、今より上がる可能性はないからです。で、どうしてその違いが生まれるかといえば、性格的な側面もありますが、それ以上に自己受容や自己肯定感の差が大きいわけです。
自己受容とは、自分をあるがまま受け入れることです。これは、出来ないけどいいやと開き直るのとは意味合いが違います。劣っている 出来ない 良くない、という事実や現実をそのまま受け止められることで、じゃあどうしようか、と建設的に物事を考えられるという意味です。
適切な自己受容がなっていないと、出来ていない自分や劣っている自分を、自分自身で受け入れることが出来ません。どうしても必ずそこにネガティブな要素が付き纏って、私はダメな人間だとか、私には無駄だとか余計な感情が付随してきます。
逆に自己受容が出来ていると、正しい方向に努力が出来たり、必要以上に自分自身を卑下することがなくなったりするので、問題が根本的に改善しやすいってことです。そして、この問題点を改善出来たという経験や結果が、そのまま自分自身を培う自信にも繋がる。その自信が、更に新たなチャレンジと成功を引き寄せる。これが、人として成長していく上で欠かせない好循環なんですよ。
この好循環を手に入れるために最も手っ取り早いのが、自分で自分は価値があると思い込むことです。だから、人生において基本的にやり得なんです。本当に価値があるかないか、なんて哲学的な観点はどうでもいいわけです。自分には価値があると思い込むこと自体に価値があるのだから、やらない理由なんかない。これに尽きる。
自分の価値は自分で決める、という主張に抵抗感や拒否感を持つ時点で、思考レベルが低いんだなあとしか私は思いません。物事を見る視野が狭すぎますね。物事には色々な側面があり、正しいかどうかよりも優先されることだってあります。その典型例ですね。
次に、不確かなものを軸にする利点が何もないことです。他者や社会からの評価を気にするのは結構ですが、それって曖昧で可変的なものなんですよ。他人からの評価なんて、評価する人のその時の気分次第でも変わることがよくあります。
曖昧なものを自分自身を構成する軸にしてしまったら、当然ブレブレで主体性のかけらもない人間になるだけです。それを見た他人から、価値のある人間だと思われるか?って話。
他者評価を何より気にしてるくせに、他者からのウケが悪い生き方をしてるって馬鹿そのものじゃない?頭が悪いんですね、としか私は思いません。他者評価を得たいという意味で見ても、自分の価値は自分で決めた方が有利です。
あと数万文字は余裕で語れるが、文字数制限なのでおわり。こんなためになる話が出来るなんて、私はなんて価値のある人間なんだ(笑)
ということです。